日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

気ままにぶらっと城跡へ㉑伏見城へ行ってきた

伏見桃山

気ままにぶらっと城跡へ、今回は第21回目です。

2023年2月14日に霰の降る寒い中、伏見桃山城の攻城をしてきました。

歴史上の伏見城は、豊臣秀吉終焉の城、桃山様式の粋を尽くして築いた城として有名な平山城でした。

別称は桃山城、指月(しづき)城木幡山(こはたやま)城です。

実のところ、伏見桃山城は「日本100名城」にも「続日本100名城」にも選ばれてはいません。

さらに城跡の大部分は現在天皇陵となっていて、入ることさえできません。

とても残念ですが、仕方ありませんね。

ちなみに、上に載せた写真は、この周辺一帯が遊園地であったときに建造された、伏見桃山城という模擬天守です。

伏見城大手門を模した渡櫓門

伏見の桃山地区は、京都東山から南へと連なる丘陵の最南端です。

南には巨椋池おぐらいけ)という湖と言ってもよいほどに巨大な池が広がっていました。

当時は、大坂の八軒家から淀川を登り、伏見まで船で通えた交通の要衝でした。

歴史上の伏見城は、三度も築城されています。

最初の城は、文禄元年(1592)に豊臣秀吉が伏見の指月に築城したもので、隠居城でした。

淀古城の天守聚楽第の建造物が再利用されたとのことです。

このときの伏見城指月伏見城といいます。

この城は文禄3年に完成しますが、すぐ後の慶長元年(1596)に発生した大地震で倒壊してしまいました。

そのため約1km離れた標高約105mの木幡山に、倒壊した天守や殿舎の木材などを利用して、あらたに築き直します。

それが二度目の伏見城木幡山伏見城です。

伏見城は、秀吉が最後に築城した城で、秀吉の築城理念が集大成された城と言えます。

秀吉は宇治川の流れを巨椋池と切り離し、伏見に導いて伏見城の外濠として防御を固めました。

そして、城下に大坂に通じる伏見港を造設。

当時、国内屈指の内陸港でした。

巨椋池には小倉堤を築いてその上に街道を通し、新たな大和街道(奈良街道)を伏見経由とするなどの大規模な土木工事を行っています。

これらのことから、秀吉は単なる隠居城を造るというよりは、京の都から大和や伊勢、大坂、さらには西国への人と物の流れのすべてを伏見の城下に集めようとしたと言えると思います。

交通の要衝で政治・軍事施設として築城されたのではないでしょうか。

伏見城は、本丸、西の丸、三の丸、治部小輔丸(じぶしょうまる)、名護屋丸、松の丸、山里丸など多くの曲輪をもつ大城郭でした。

九州の名護屋城の縄張りとよく似ているとの説もあります。

伏見城縄張図(推定図)」(『城 解説編』より)

伏見城は、本拠である大坂城と、朝廷に影響力を行使する京都の間にあって好都合だったのでしょう。

伏見城城下は、大手門から西に伸びる大手筋を基軸として基盤の目に街路が整備されていました。

そしてその周囲に、家臣団が屋敷を構えていたのですね。

大倉酒造の月桂冠大倉記念館に、伏見城下町の絵図が展示されています。

それを見ると伏見城は濠に囲まれた曲輪がたくさんあり、近くにはいくつもの小島が描かれていました。

まるで水城のようでしたよ。

その一つにあったのが、内濠を持つ城と見まがうかのような家康の屋敷です。

また城の下の方には、前田利家毛利輝元加藤清正細川忠興などの多くの家臣の名前が見えました。

武将の名前と町名が同じだった場所が、伏見には現在でも結構残っているようですね。

築城のため、元々いた住民は強制移住させられたそうです。

家臣団が屋敷を構え、京都や大坂、堺、尼崎の職人や商人を移住させたとのことです。

その結果、人口約6万の大都市となり、一部土塁や濠で囲まれた総構えの城下町となりました。

慶長2年(1597)に完成し、1年後に秀吉は伏見城内で死亡。

63歳でした。

▼関連記事

伏見桃山城キャッスルランド」入場門として造られた渡櫓門

秀吉亡き後は、五大老となった家康が伏見城へ入城します。

関ヶ原の戦いのときは、家康の家臣・鳥居元忠(もとただ)ら2,000名の将兵で籠城し、総勢4万人の西軍と戦いますが、なかなか落城しませんでした。

しかし、城内の甲賀者たちの裏切りにより落城、建物の多くが焼失しました。

そのとき家臣らが自刃した血で汚れた床板が、京都市の養源院や正伝寺などで天井板として再利用され、「血天井」として今も見ることができます。

しかしながら移築を裏付ける資料などはないため、信憑性はあまりないようですよ。

焼失した伏見城は、慶長7年ごろに家康によって再建されました。

これが、三度目の伏見城です。

普請奉行は、家康の信任があつかった名築城家・藤堂高虎でした。

▼関連記事

家康は、この再建された伏見城で慶長8年(1603)に征夷大将軍の宣下を受けています。

以後、三代の家光まで家康と同じく伏見城で将軍宣下式を行いました。

伏見城は徳川家にとって非常に重要な城であったわけですね。

しかしこの間、家康の隠居城としての駿府城も完成し、徳川家上洛時の宿舎としての二条城も完成。

その結果、家光の将軍宣下が元和9年(1623)に行われた後に、伏見城は破却されます。

伏見城天守は二条城の天守として移築、本丸御殿は大坂城仮御殿となりました。

また、広島県福山城の築城にさいしては、徳川幕府の西国押さえの要の城として重要視。

伏見城から櫓、城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、築地塀など多くのものが福山城に移築されています。

▼関連記事

近くにある御香宮神社の表門は、伏見城大手門を移築したものです。

廃城後の元禄時代頃までに城跡一帯が開墾され、桃が植えられて「桃山」と呼ばれたことから、後に伏見城桃山城と呼ばれるようになりました。

伏見城跡は伏見奉行所の管理となり、幕末まで立ち入り禁止でした。

その後本丸跡などの主要部分は、明治天皇、皇太后の陵墓(伏見桃山陵)となり、今は立ち入ることが出来ません。

伏見桃山城模擬天守

昭和39年(1964)に、伏見城の西側の御花畑跡に近鉄の遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」がオープン。

ジェットコースターやプールなどもあり、家族連れで大変賑わっていました。

そのとき、「洛中洛外図」に描かれた伏見城を参考にして、現在の伏見桃山城が建造されたのです。

鉄筋コンクリート造りの五重六階の大天守と、三重四階の小天守と櫓門を付けた連結式模擬天守ですね。

一重目と三重目に軒唐破風、三重目と四重目に大きな入母屋破風、最上階には朱色の廻高欄を持つ、いかにも桃山風の望楼型天守です。

天守は、開館当時「桃山文化史館」となっていて、桃山時代の屏風や黄金の茶室のほか、秀吉関係の資料が展示されていたようです。

天守

三重四階建ての小天守は、二重の建物の上に望楼を載せた望楼型天守です。

三重目には火灯窓と朱色の高欄をつけています。

この小天守を連結した天守の建築費用は、当時の金額で約6億円かかったようです。

2003年に遊園地は閉園となり、模擬天守も取り壊されることに決定しました。

しかし、地元市民の要望と運動によって、伏見のシンボルとして保存されることになったのですね。

天守とともに、遊園地の跡地も京都市に無償で贈与。

現在は伏見桃山城運動公園として整備され、利用されています。

天守の上からの眺望は大変すばらしいものがあったようですが、今はその景色を楽しむことは出来ません。

耐震基準を満たしていないので天守に人は入れず、内部は非公開です。

とっても残念……。

 

************************************

 

桃山陵墓地案内図

左上が、平安京遷都をした桓武天皇陵、右側は明治天・皇太后陵。

明治天皇と皇太后の陵墓入口の石碑

遺言により、明治天皇はこの地に埋葬されました。

明治天皇大喪の礼が行われた日、乃木希典将軍は妻・静子とともに自刃してなくなりました。

明治天皇の陵墓の麓にあるこの乃木神社は、大正5年(1916)の9月に創建されています。

乃木神社山門

乃木将軍長府旧宅

(写真はすべて筆者撮影)

 

伏見城詳細

・住所:京都府京都市伏見区桃山町古城山

・アクセス:JR奈良線桃山駅から徒歩約15分

・営業時間:公園は24時間

・定休日:なし

 

【参考文献】

平井聖監修『城 5 近畿 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ一』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟)、石井進監修『文化財探訪クラブ6 城と城下町』(山川出版社 1999年7月25日1版1刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)他

▼PR 楽天で旅をエンジョイ

 

▼PR 栄養が整った宅配フードなら