日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

気ままにぶらっと城跡へ⑦淀城へ行ってきた

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淀城説明版と天守台石垣(写真は筆者撮影)

京都の淀城址に行ってきました。

私は淀城址には1998年4月29日に一度登城しています。

しかし今日(2021年10月4日)は天気も良いので、久しぶりに京阪電車に乗ってぶらっと淀まで行ってきました。

 

淀駅は淀競馬場で有名ですが、私は行ったことはありません。

幸い競馬は開催されていませんでしたので電車も空いていましたし、淀駅で下車する人もいませんでした。

城址は競馬場と反対側にあり、駅からはすぐです。

淀城は豊臣秀吉の側室於茶々(後の淀殿淀君)が秀頼誕生のために築いた城として有名ですが、今回探訪した淀城址は秀吉の築城した淀城址ではなく、徳川の淀城址です。

茶々姫が住んだ淀城と徳川の武将が建てた淀城の説明は、後程いたしますね。

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京阪電車淀駅前の地図

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城址に設置されている徳川淀城説明版

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元和9年(1623)に徳川秀忠伏見城の廃城にともない、京都の南側を固めるために掛川城主の松平定綱に淀へ新しく築城を命じ、転封させます。

徳川家は将軍就任式に出席するために代々上洛しており、そのときに使っていたのが伏見城ですね。

しかし三代将軍家光の就任式を最後に、将軍が京都に来ることはなくなりました。

以後は天皇の勅使が江戸城に出向いて将軍の就任式を行うことになったからです。

天皇といえども徳川家の意向に従わざるを得なくなったため、そのようになりました。

用がなくなったため伏見城は廃城、その後将軍が京都へくるときには修繕した二条城や新たに築城した淀城に宿泊しています。

淀城は説明パネルを見ると分かります(写真が良くなくて分かりづらいでしょう。申し訳ない)が、本丸から右回りに二の丸、三の丸と曲輪を並べてゆく渦郭式の縄張りで、桂川と木津川が合流する水陸の要衝の地に築かれた平城です。

というよりはむしろ、水城と言ったほうがよい城郭ですよね。

城内は宇治川や巨椋(おぐら)池の水を引き入れて、二重、三重の水濠を巡らした複雑な城郭となっています。

定綱は寛永2年(1625)までに、伏見城の解体資材などを用いて城を完成させます。

その後、何人か城主が変わりましたが、享保8年(1723)に稲葉正知(まさとも)が122,000石で淀城に入ります。

正知は三代将軍家光の乳母として絶大な権勢を誇った、春日局の子孫ですよ。

以後、淀城は稲葉氏12代で明治維新を迎えます。

 

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城址に設置されている説明板などの縄張り図は、稲葉氏時代の城郭の姿を示しています。

当時、淀川を往来する船から見る淀城の景観は浮城として名所に数えられていたほど美しい城郭だったのでしょう。

しかし今はすっかり埋め立てられて、本丸の内濠と石垣の一部しか残っていません。

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石碑

幕末になって、淀藩は幕府を大きく裏切ります。

当時の藩主であった稲葉正邦(まさくに)は、江戸幕府の老中を務めていました。

にもかかわらず、慶応4年(1868)の1月に起きた鳥羽・伏見の戦いで、最後に幕府軍を捨て薩長軍についたのですね。

淀藩の裏切りによって幕府軍は手痛い打撃を受けます。

この淀藩の行動は、それ以後の動きに決定的な影響を与えることになったようです。

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城址に設置されている石碑

城址の端っこで「明治天皇御駐驛之址」の石碑を見たとき、何故こんなところに設置されているのか不思議でした。

これは慶応4年の4月に、明治天皇が大阪行幸の帰途淀城内で宿泊したことを記念して設置されたもの。

いくら天皇や新政府のために裏切った城といえども江戸幕府の要職を務めた藩の城に、こんなにも早い時期に天皇が宿泊されたとは驚きです。

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駅からの入り口と反対側にありました

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天守台への登り口

天守台には鍵がかかっていて入れませんでしたが、石垣を修理し調査した結果、徳川淀城には五重五階地下一階の天守が建てられていたことが分かったそうです。

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天守台石垣

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石垣の修繕の終わった天守台(出典:淀城 - Wikipedia

淀城の天守は、廃城となる伏見城天守を移築することになっていました。

そのため寸法を合わせて天守台石垣を築いたのですが、途中で伏見城天守は二条城に持っていき、家康が建造した二条城の天守が淀城の天守として移築されることになったのですね。

ところが移築された二条城の天守伏見城天守より小さい。

結果、天守台石垣の四隅に空き地が出来てしまいます。

それでは見た目に恰好が悪いので、四隅に姫路櫓という二重の櫓を置くという特異な形だったそうです。

連立式天守のようなものと言われています。

写真がないのでどんな天守の姿か分かりませんが、見てみたいですね。

この天守は宝暦6年(1756)に落雷により焼失し、その後再建されることはありませんでした。

……残念!

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打込接ぎの天守台石垣

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天守台の石垣と内濠、高架は京阪電車

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本丸を囲む石垣

文献によると、淀城は京の南側を守る要の城として石垣上に35基もの櫓が構えられており、その雄姿を淀川に映していたと言われています。

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内濠

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天守台石垣   by:photo-ac

淀城の水濠に植えられているのは「淀姫」と名付けられた蓮だそうです。

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「淀姫」と言う名前の蓮の説明版

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水車の説明版 ただしここには水車はありませんでした

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淀駅前につくられた模擬水車

永井藩主の時代に、淀川に沿って城郭に二つの水車が作られていました。

水車のことは説明版のとおりですが、当時「淀の川瀬の水車 誰を待つやらくるくると」という歌で名高かったようです。

本丸址は現在公園で、与杼(よど)神社と藩祖の稲葉正成を祭神とした稲葉神社の境内となっています。

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与杼神社入口

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神社の由緒書き

下↓の写真は稲場神社の参道です。

手入れも充分でなく、与杼神社とはずいぶん違っています。

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淀古城は、徳川淀城とは500m程離れています。

後世に淀古城と呼ばれる茶々(淀君)が住んでいた城は、もともと文明年間(1469から1486)に細川政元が築城したもの。

その城は信長の武将・細川藤孝に攻略され落城しています。

山崎の合戦では、明智光秀が淀城に陣を張って秀吉と戦い敗れます。

天正17年に秀吉は側室の茶々の出産のため淀城を修築。

茶々が移り住み、秀吉の初めての子供である鶴丸を出産します。

しかし鶴松が病死してしまい、文禄3年(1594)に淀城を破却してしまいました。

 

淀殿が住んでいた古淀城があったところと推定される場所に妙教寺があります。

境内に石碑が建てられていますが、そのほかは城郭の面影はどこにもありませんでした。

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妙教寺説明板

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「史跡淀古城址」と刻まれた石碑

 

*淀城詳細

・住所:京都府京都市伏見区淀本町167

・アクセス:京阪電気鉄道京阪本線 淀駅 徒歩約4分

・営業時間:24時間開放

・休業日:年中無休

 

 

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【参考文献】

西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日発行)『城 5 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)他

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