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68回目です。
今回も引き続いて北九州、福岡県の小倉城の紹介といきましょう。
小倉城は関ヶ原の戦いのあとに入封した細川忠興(ただおき)により、慶長7年(1602)に築かれた平城です。
当時一流の文化人であった細川忠興の趣味にかなった華麗な城として、その名がローマ法王庁まで届いたと伝わっています。
「続日本100名城」(第181番)に選定されており、別称は勝山城、湧金(ゆうきん)城、指月(しずき)城、勝野城です。
私は2001年2月9日に登城しました。
小倉城は、紫(むらさき)川が響灘(ひびきなだ)の関門海峡入り口に流れ込む河口西側の丘陵の上に建っています。
この地への初めての築城は、文永元年(1264)に土豪の緒方惟重(おがた これしげ)によるもので、勝山城と呼ばれていたそうです。
九州の玄関口・関門海峡をおさえる要衝の地だったため、その後はたびたび抗争の舞台となっています。
元亀元年(1570)には大友氏家臣の高橋鑑種(あきたね)、天正15年(1587)には豊臣秀吉の家臣、毛利(森)勝信(かつのぶ)が入城し、織豊系城郭へと改修。
しかし勝信が関ケ原で西軍として戦っている留守中に、中津城にいた黒田如水に攻略されてしまいました。
40万石で中津城に入城した細川忠興は貿易の面でも有利な小倉に目をつけ、本城とするべく旧城を大改修します。
ただし改修と言うよりも、実際には全く新たに築いたと言える程のものでした。
40万石の国持大名にふさわしくしたのですね。
天守の完成は工事開始から8年後だったようです。
本丸を二の丸が、本丸と二の丸を三の丸が梯郭式に取り巻いている縄張りです。
城の東側は紫川を天然の外濠とし、さらにその外側に濠(現在の砂津川)を設けていたため本丸の濠とで三重の濠。
城の西側は板櫃(いたびつ)川とそこに続く外濠、三の丸の濠、二の丸の濠、本丸の濠とで合計五重の濠に囲まれていました。
総構(そうがまえ)の周囲は8Kmにおよぶ堅固な城郭です。
城の中心部は石垣で固められていましたが、その多くは野面積みでした。
また紫川の河口に港を造り、城内に港を隔てた城下町を造っています。
港も城下町も水濠ですっぽりと囲む総構の塁線は複雑に屈曲していて、敵の侵入を防ぐ横矢掛りが随所に造られていました。
平城というよりは水城と言ってもよい城ですね。
細川忠興は、宮津城、中津城といずれも海近くの水城を築いています。
城郭には148基もの櫓が立ち並び、楼門48棟という大城郭。
防御力が極めて高い城郭でした。
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寛永9年(1632)に細川忠興と忠利(ただとし)が肥後熊本へ移ったあと、小笠原忠真(ただざね)が播州明石から15万石で入城します。
これは3代将軍の家光から、九州の諸大名を監視するようにとの特命を受けての転封だったようです。
ここでも豊臣恩顧の大名に堅固な城を築城させ、そのあと譜代大名が入城するという徳川家のずるいやり方をしています。
それも40万石にふさわしい大城郭を15万石の大名に渡すのですからひどい話です。
以後、譜代大名としての小笠原氏9代230年間の居城として明治を迎えます。
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天守以下、壮麗な殿舎を連ねた小倉城でしたが、天保8年(1837)に城内の失火で天守が焼け落ち、本丸殿舎なども焼失します。
その後本丸御殿などは再建されましたが、天守は再建されませんでした。
幕府の第二次長州藩征伐の戦いのおりには、幕府方として最後まで戦った小笠原氏は長州騎兵隊に敗れ、ついに藩主自らが火を放って退去したため、建物のことごとくを焼失してしまいました。
↓は現代の小倉城の案内図です。
大手門跡です。本丸東の表門で、家老など限られた人だけが通ることができました。
昭和34年(1959)に復興された現在の天守は、大入母屋破風と軒唐破風、比翼入母屋破風などが造られた美しい望楼型天守です。
しかし、かつての天守は飾りのないいわゆる層塔型のシンプルな外観であったと言われています。
再建される時に設計を担当した東京工業大学藤岡通夫教授は、資料考証に基づいて層塔型の破風のない元通りの天守案を提出しました。
しかし建設資金を提供した地元商工会から、「お城の恰好を良くするためには大入母屋破風や千鳥破風、唐破風が必要である」という要望が出され、観光用の天守の姿となったそうです。
これは後日、藤岡教授が証言しています。
研究者である藤岡教授としては、元通りの破風のない天守を作りたかったのですね。
だけど叶いませんでした。
このような話は以前の天守再建ではよくありますが、最近は歴史を無視して建造することは許されなくなっています。
また、小倉城天守は、「南蛮造(なんばんづくり)」、あるいは「唐造(からづくり)」と言われる特異な形をしています。
黒板戸の五重目が下の四重目より大きく張り出して造られ、四重目の屋根庇(やねびさし)が省略された形なのですね。
これは細川氏が宣教師から学んだ築城技術を取り入れたものだそうです。
四重目から下は白漆喰総塗籠。
小倉城と同じような天守には、復元された岩国城天守がありますよ。
今はありませんが高松城天守、柳川城天守なども同じような南蛮造りの天守だったようです。
写真は多門櫓と着見(つきみ)櫓。
着見櫓とは、城内に作った船着き場に船が到着したかどうかを確認する櫓です。
写真では天守に接続しているのが多聞櫓、左に見えるのが復興された着見櫓ですね。
着見櫓も元の平櫓ではなく二重櫓となり、元の姿とは違っています。
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現在、勝山公園として整備されている城址には、忠興自慢の豪快な野面積みの石垣が残っています。
また、天守のほか小笠原氏時代の大名屋敷を再現した小倉城庭園、地元北九州市出身の作家松本清張記念館がありますよ。
その大祭である「小倉祇園太鼓」は城下町小倉の夏を彩る一大行事として、市民ばかりでなく、多くの観光客を楽しませています。
こちらは小倉城の公式サイトです!登城前にはぜひチェックしてくださいね。
*小倉城詳細
・アクセス:小倉駅から徒歩で15分
・営業時間:4月1日~10月31日 9:00~18:00/11月1日~3月31日 9:00~17:00
・休業日:年中無休
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【参考文献】
平井 聖監修『城 8 九州 沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第1刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ三』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日発行)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年7月15日発行)、全国城郭管理者協議会監修『復元イラストと古絵図で見る日本の名城』(碧水社 1995年4月18 日発行)他
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