第119回目は、神奈川県小田原にある石垣山城です。
石垣山城は、天正18年(1590)に豊臣秀吉が最後の強敵であった小田原の北条氏征伐のさいに築いた山城です。
秀吉天下取りへの陣城ですね。
秀吉が眼下に小田原城を見下ろしながら、家康と並んで放尿し、「小田原が落ちたら、関八州をやろう」と言ったという、いわゆる「関東の連れ小便」で有名な城でもあります。
石垣山城は「続日本100名城」(第126番)に選定、国の史跡にも指定されています。
別称は、一夜城、石垣山一夜城、太閤一夜城。
石垣山城へは2005年7月16日に登城しました。
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石垣山城は、小田原城の南西約3kmのところにある標高約260mの笠懸(かさがけ)山の山頂に築かれています。
秀吉が北条氏の小田原城を攻めるために築いた、いわゆる秀吉の本陣としての山城です。
総勢15万人ともいわれる秀吉軍の大軍は、小田原城を陸上・海上を問わず完全に包囲します。
しかし、北条氏は濠と土塁により城下を囲む総構を構築。
5万軍の軍勢で豊臣軍を迎え撃つ準備が整っていました。
小田原城が堅城であることを知った秀吉は、小田原城攻めが長期戦になると考え、単なる陣城ではなく、本格的な城郭として築城を始めます。
山頂に本丸を置き、その周囲に西曲輪、南曲輪、東に二の丸と井戸曲輪を配置。
天守や御殿をも備えた、居城規模の本格的な城郭だったようです。
石垣山城は、のちに改修などの城郭の改変がないため、当時の城郭を伝えるものとして学術的にも貴重な城址で、国の史跡に指定されています。
石垣山城がある山頂の方が高いので、石垣山城からは小田原城が見下ろす形で見えていますが、当然小田原城からも笠懸山は見えています。
記録が残っているわけではありませんが、石垣山城は約5万人の兵を動員し、小田原城からは見えないように工夫したうえで、わずか80日の突貫工事で完成したと伝わっています。
では、何故「一夜城」といわれるのでしょうか。
秀吉は城の完成後、夜明け前に小田原城側の木々を切り払いました。
そのため、小田原方が石垣山城の存在を知ったのは翌朝方のこと。
忽然と出現した高石垣と白漆喰総塗籠の城が自分たちを見下ろしているのに驚き、一夜のうちに築城されたと思いこんだのですね。
石垣山城の突然の登場は、籠城兵の士気を砕いたという伝説が残っています。
秀吉は小田原合戦終了後も、石垣山城の普請・作事は続けていたようです。
それは、家康の関東移封後もこの石垣山城を家康の家臣・大久保忠世(ただよ)に預けて温存し、秀吉支配の象徴として城の存続を考えていたからだと言われています。
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石垣山城は関東で初めての、城郭のほぼ全域が近江の穴太衆によって築かれた、野面積みの総石垣の城郭です。
ただ長い年月の間、関東大震災などの大地震に何度か見舞われており、修復もされていないため、崩れかけているところが多くあります。
わずか80日ほどで石垣を築き上げられたのは、35名もの穴太衆が昼夜休まず工事に携わったことだけでなく、何よりも石垣山が多量の石を産出する山であったためです。
石の調達が現地で簡単にできないと、短期間での石垣の築城はできません。
木材は別の場所で加工し、運んできて現場で組み立てれば良いのですが、石垣は石そのものを運ぶ必要があり時間がかかります。
そこをカットできたことは、とても大きいでしょう。
石垣山城の高石垣は、この南曲輪大手口の面で、最大で約16.2mもあります。
秀吉は、諸将に妻女を小田原に呼ぶことを勧めるとともに、自分も淀君などを呼び寄せました。
さらに、千利休らの茶人ばかりでなく芸人も呼び寄せ茶会や酒宴を催すなど、まるで物見遊山にきたかのような余裕を示していたようです。
籠城している北条氏の城兵はたまりませんよね。
遊び呆けている姿を間近に見るわけではなくとも、秀吉方の諸将の陣では歌舞音曲の宴が行われていることは伝わってきます。
一方、籠城している北条氏政・氏直や諸将たちは毎日軍議を繰り返すだけで、有効な戦略を部下に示すことが出来ないまま時間がたっていきました。
いわゆる「小田原評定」ですね。
小田原城を囲む山中城などの北条方の城がつぎつぎと落城すると、耐えられなくなった北条氏はほどなく投降、小田原城は開城します。
以後、石垣山城は、家康配下の大久保氏の管轄下におかれ、箱根を押さえる要害として重要視されました。
しかし、城として使われることは二度となかったようです。
城址は、本丸跡を中心に石垣山一夜城歴史公園として整備されています。
毎年10月には秀吉の茶会にちなんで「一夜城祭り」が開催されているそうですよ。
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【神奈川県・東京都城跡巡りの旅】
2005年7月16日から1泊2日で、神奈川県と東京都の5城址巡りをしました。
主な目的は、石垣山城址と八王子城址の探訪ですが、その途中であまり有名ではない、そして遺構もほとんどない城跡も探訪しました。
20年近く前の記録ですが、振り返ってみたいと思います。
7月16日
まず上記の石垣山城址を探訪。
石垣山城は、単なる陣城を越えた大掛かりな城郭跡でした。
それから、津久井城跡へ。
麓にある津久井湖の駐車場でタクシーに待ってもらって、午後3時過ぎに登城。
城跡へ行く人が少ないのか道は夏草に覆われていて歩きづらく、山頂近くの本丸跡へ行くのに苦労しました。
もう諦めようかと思ったとき、繁った草の向こうに土塁のようなものを発見し、持ってきた城跡の写真と同じ景色を確認してほっとしました。
下城の途中から鬱蒼とした木の繁りから段々暗くなり、道も分かりにくかったので少々不安になりました。
やっとの思いで麓の駐車場に辿りつき、ようやく一安心です。
私はこのときの経験から、有名でない山城について、夏場は草に覆われて石垣や曲輪跡などの形状が分かりにくいこと、つまり草が枯れる秋の暮れから冬場にいくべきこと、初めての山城は遭難防止の点から午前中に行くことにしました。
7月17日
片倉城は、湯殿川と宇津貫川に挟まれた舌状台地の先端に築かれています。
カタクリの花の名所としても知られているそうです。
続いて、秀吉の小田原攻めで落城した北条氏の有名な山城の八王子城へ。
御主殿虎口石垣や、橋台石垣と曳橋が想定復元されていましたね。
ハイキングに来ていた人たちと一緒に山頂の本丸跡へ登りました。
山頂の八王子神社が本丸跡に建てられています。
立派な石碑も建てられていました。
最後に、滝山城跡へ。
城跡は都立滝山自然公園となっていました。
森の中に優れた縄張りが配置されていたようで、土塁と空堀が確認出来たのがよかったです。
石碑と滝山城の説明板がわずかに設置されていました。
*石垣山城詳細
・住所:神奈川県小田原市早川1383-12
・営業時間:24時間
・定休日:年中無休
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【参考文献】
平井 聖監修『城 2 関東 もののふ集う東国の城』(毎日新聞社 平成9年2月25日発行)、公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、『城 其ノ二』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日初版発行)他
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