日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

お城大好き雑記 第95回 高取城

高取城址石碑    by:photo-ac

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95回目になりました。

今回は、奈良県高取城です。

高取城があるのは、奈良盆地吉野山系との間に障壁のように連なる山々のなか。

日本三大山城の筆頭の城ですね。

近世まで山城として存続した数少ない城郭でり、最大規模を誇った高取城は、城郭史上でも特異な例として注目されています。

標高584mの急峻な高取山山上に連なる白い土塀が、築城当時は奈良盆地からも見えたとそうですよ。

山頂に現存する壮大な高石垣群には驚くほかありませんが、苔むした石垣が当時の姿を偲ばせています。

別称は鷹取(たかとり)城、芙蓉(ふよう)城。

日本100名城」(第61番)に選定され、国の史跡にも指定されています。

私は、2002年5月30日に登城しました。

 

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大手道  by:photo-ac

高取城の始まりは、南北朝時代

護良(もりなが)親王が元弘2年(1332)に吉野で討幕の旗を揚げたことに応え、土豪の越智邦澄(おち くにずみ)が詰めの城として築いた城です。

やがて越智氏は居城としていた貝吹山(かいふきやま)城から、より防備の固い高取城に移りました。

天正11年(1583)頃、越智氏は家臣の謀反によって滅んでしまいます。

そして天正12年、大和郡山城主・筒井順慶(つつい じゅんけい)が、高取城を支城として復興。

しかし郡山城の順慶は同年中に亡くなったうえ、翌年に筒井氏は伊賀に転封、秀吉の弟・秀長の城となりました。

秀長の命を受け、本多正俊(まさとし)と嫡子の俊政(としまさ)親子が近世城郭として高取城を完成させます。

文禄4年(1595)に郡山城の羽柴秀保(ひでやす)は急死、郡山城豊臣氏は断絶しました。

しかし家臣だった本田氏は移封させられることなく、そのまま独立して1万5000石の高取城主となります。

本多氏の断絶のあと、寛永17年(1640)に譜代の植村家政(いえまさ)が2万5000石で高取城に入城。

植村氏は、数年後に山麓の下子嶋(しもこしま)村に下屋敷(新御殿)を造営して居館とします。

家臣も逐次山下に移住し、城には城番を設置。

そのまま高取城は、14代234年間、植村家の居城として明治を迎えます。

 

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大手櫓門跡   by:photo-ac

本丸石垣    by:photo-ac

高取城は、山城式に平城式手法を加えた山城です。

山頂の最高所に帯曲輪をもつ本丸を置き、その西側下に二の丸、壺阪口曲輪などからなる三の丸、東には吉野口曲輪などを配していました。

また、尾根沿いに小さな曲輪をいくつも置いていました。

三の丸から、七回りといわれる屈曲した坂道の両側に石垣で固めた武家屋敷を配置。

要所に門を設け、固い防御だったのです。

本丸の北西隅に三重の大天守を建て、三重の小天守、焔硝櫓・鉛櫓が二重の多聞櫓で連結した連立式の天守だったといわれています。

姫路城や和歌山城と同じ形式の天守が、険峻な山上に建造されていたとは驚きです。

二の丸は比較的大きな曲輪で、御殿が置かれていました。

本丸下段には鎧櫓、具足櫓など5基の櫓が立ち並び、北側の麓まで石垣上に27基もの櫓が建てられていたとそうです。

そのうち三重櫓は17基もあったらしいですよ。

凄いですね。

山城としては異例なほどの壮大な構えの城郭だったのです。

2万5000石の小藩であるのに、これほどの規模の城郭を造ったのは、宗教都市である南都・奈良を押さえるためだったのでしょう。

石垣の石材には、近隣の古墳から運ばれてきたと思われるものも少なくありません。

いわゆる転用石ですね。

大和郡山城の築城の時と同じです。

「和州高取城図」(『城 5 近畿 華と競う王者の城』より)

石垣に囲まれた曲輪が、階段状にいくつも造られているのが良くわかる縄張り図ですね。

これを麓から上がってきて攻め落とすのは至難のことでしょう。

天守台 野面積みの高石垣    by:photo-ac

天守台石垣    by:photo-ac

本丸石垣    by:photo-ac

二の丸石垣   by:photo-ac

太鼓櫓跡 古い石垣  by:photo-ac

七つ井戸からの見上げた本丸の石垣    by:photo-ac

猿石    by:photo-ac

これは、奈良県明日香村の吉備姫王墓(きびつひめおおきみのはか)にある猿石と同じようなものです。

おそらく築城の時石材として古墳の石などと一緒に運び上げられてきたものだろうと言われています。

結局は石垣に使われず、二の門の前に置かれています。

この形のものはどうしても石垣には使いにくかったでしょうね。

二の門水濠   by:photo-ac

山城には珍しい水濠が備えられていて、今も豊かに水を湛えています。

石造りの井戸もちゃんとありますよ。

籠城戦に備え、山城では水の確保が重要ですのでね。

国見櫓跡から大和の国が一望できる  by:photo-ac

 

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壺阪寺 by:photo-ac

盲人・沢市と三つ違いの女房・お里の夫婦愛を描いた浄瑠璃「壺坂霊験記」で有名な、壺阪寺(正式名称は南法華寺)は西国三十三番霊場の第6番札所です。

高取城へはここから登城します。

城下町高取町は札ノ辻で町屋と武家屋敷群とに区分され、家老の植村家長屋門武家屋敷などが現存しています。

また、高取町は「くすり」の町としても有名です。

「先用後利」(先に薬を使い、後に代金を支払う)の独特の商法で“大和の薬売り”の名(富山の薬売りと同じですね)で親しまれ、現在も製薬、家庭配置薬業が地場産業の大半を占めています。

 

▼以下の動画は、奈良高取放送局が製作した、高取城のCG再現映像と現在の高取城を比較したもの。

人が歩いて現在の高取城跡を撮っているため少々酔うかもしれませんが、よくわかるのでおすすめです!

youtu.be

 

高取城詳細

・住所:奈良県高市郡高取町高取

・アクセス:近鉄吉野線壺阪山駅より奈良交通バス「壺阪寺前」下車、徒歩約50分

・営業時間:なし

・休業日:年中無休

 

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【参考文献】

平井聖監修『城 5 近畿 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、『城 其ノ一』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)、中井均監修『超雑学  読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日初版発行)、『関西の城あるき』(京阪神エルマガジン社 2019年10月7日初版発行)他

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