日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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お城大好き雑記 第118回 愛知県 長篠城

長篠城址石碑   by:photo-ac

118回目ですね。

今回は、愛知県の長篠城に参りましょう。

長篠城は、城外の設楽原(したらがはら)の戦いで有名になった戦国時代の平城です。

無敵を誇った武田の騎馬軍団を、織田・徳川連合軍は鉄砲部隊で壊滅させました。

長篠城は、別所街道や伊那街道、金指街道が交わる交通の要衝にあり、三河内陸部の東西交通を制することが可能な場所にあります。

そのためか、駿河の今川氏,、甲斐の武田氏や織田氏、徳川氏などの戦国武将に翻弄され続けました。

現在は、本丸とその周辺に当時の遺構がわずかに残るだけです。

長篠城は、「日本100名城」(第46番)選定、国指定の史跡でもあります。

別称は末広(すえひろ)城、扇(おうぎ)

長篠城へは1999年5月16日に登城しました。

 

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長篠城址(正面の林)、左にJR飯田線の鉄橋が見える  by:photo-ac

長篠城は、荒尾の岩古屋(いわこや)城からこの地に移ってきた長篠菅沼氏の菅沼元成(もとなり)が永正5年(1508)に築きました。

菅沼元成は、奥三河の山間に割拠した豪族「山家三方(やまがみかた)衆」の一家で、当時今川氏に従っていました。

しかし、後に徳川氏、武田氏と主家を変えつつ、時に三方衆と連携しながら群雄割拠の三河にあって一族の生き残りを画策していたのですね。

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの後、4代城主・菅沼貞景(さだかげ)は今川氏から徳川氏に主家を乗り換え、その子・正貞(まささだ)は甲斐武田氏の軍門に下りました。

しかし、天正元年(1573)に徳川家康に攻められたさいに、武田の援軍が得られず落城してしまいます。

長篠城本丸跡     by:photo-ac

家康は、松平家忠(いえただ)、奥平影忠(かげただ)らを長篠城に送り込みます。

天正3年(1575)に奥平貞昌(さだまさ)が城将だったとき、長篠の戦いが起こりました。

1万5,000人の武田勝頼軍が長篠城を取り囲み、攻撃してきたのです。

しかし、籠城して戦う長篠城を、織田・徳川連合軍が救援、武田方を壊滅させます。

天正4年に信昌と改名した貞昌は、城を守り抜いた功績により、長篠の南方に新城(しんしろ)城を築くことが許され、家康の長女・亀姫を正室として迎えました。

信昌は新城城に居城を移し、長篠城は廃城。

信昌の子孫は松平姓を許され、後に豊前国中津10万石の城主大名として明治維新まで存続しています。

いやあ、良かったですね。

 

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長篠城縄張概図     by:photo-ac

長篠城は、寒狭川(かんさがわ 右側/豊川ともいう)と宇連(うれ)川が合流する三角形の河岸段丘の突端にある天然の要害、「後堅固の城」です。

2つの川に挟まれ、峡谷を城の守りに利用した典型的な戦国時代の城郭でした。

断崖絶壁の上に本丸を置き、その周囲に二の丸、帯郭、弾正郭、野牛郭を置き、その外側に巴城郭と家老屋敷、さらに瓢郭、大手郭が置かれました。

本丸の東側に一段低く野牛郭がありますが、水の手と背面監視の郭だったようです。

台地続きの北側には巨大な三重の堀と土塁を築いて防御力を高めていますね。

本丸土塁跡     by:photo-ac

長篠城帯曲輪址 空堀の向こうが本丸     by:photo-ac

深くて大きい空堀      by:photo-ac

設楽原合戦地 手前が連吾(れんご)川    by:photo-ac

天正3年(1575)の長篠の戦いの主戦場である設楽原は、長篠城の西方約2kmのところにあります。

1万5,000人の武田勝頼軍に対して、わずか500余人の城兵が必死に防戦。

なんと21日間も籠城戦を戦い抜きます。

あわや落城というときに織田・徳川軍が駆けつけて、城外の設楽原に「馬防柵」を組み立て、3千挺の鉄砲隊の三段射撃を繰り返したのです。

天下無敵といわれた武田の騎馬軍団が、織田・徳川連合軍の鉄砲隊の前に倒れていきました。

騎馬隊と鉄砲隊との長篠の戦いは、中世と近世の節目であったといわれていますね。

上の写真左奥の森の手前、連吾川を挟んだ段丘に、武田の騎馬軍団を迎え討つために信長が築いた馬防柵(下の写真)が復元されています。

また、段丘には、設楽原合戦を伝える石柱や武田軍の将兵の墓などが点在していますよ。

復元された馬防柵     by:photo-ac

鳥居強右衛門説明図      by:photo-ac

長篠の戦いで、貞昌の家臣・鳥居強右衛門(すねえもん)が、岡崎城の家康のもとに救援の使者となります。

役目を果たして長篠城に戻ってきた強右衛門は、城近くで武田方に捕らえられました。

命と引き換えに、味方に「援軍は来ない」と嘘の報告をするように迫られたのです。

川を挟んで城と対峙した強右衛門は、磔柱に縛られたまま、「援軍はあと三日で来る」と城のほうに向かって絶叫。

次の瞬間、槍が強右衛門の体を突き貫きました。

その後、家康・信長の連合軍は、勝頼軍の3倍の軍勢で長篠城救援に駆けつけます。

 

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長篠城址・史跡保存館    by:photo-ac

城跡の南端をJR飯田線、北側は国道151号線が通っていて、遺構の多くは失われてしまっています。

しかし、本丸周辺の堀や土塁がかろうじて残っていますよ。

本丸跡などの一部は公園に。

帯郭跡にある長篠城址・史跡保存館には、長篠合戦の様子が分かるような展示があり、貞昌が籠城のときに使った陣太鼓「血染めの陣太鼓」など、奥平家の家宝が保存されています。

ぜひお立ち寄りくださいね。

長篠城址附近略図   by:photo-ac

 

長篠城詳細

・住所:愛知県新城市長篠字市場22-1

・アクセス:JR飯田線長篠城駅から西へ徒歩7分

・営業時間:城址の見学は24時間 / 長篠城址史跡保存館9:00〜17:00(最終入館16:30まで)

・休業日:年中無休 / 長篠城址史跡保存館は毎週火曜日と年末年始

 

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【参考文献】

『築城から読み解く戦略と戦術 戦国の堅城』(学習研究社 2004年9月1日第1刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ一』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、「一個人 2010 No.124」(KKベストセラーズ 平成22年7月26日発行)他

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