日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

20年前の旅記録! 花ちゃん東北城巡りの旅(岩手・青森・秋田)

三戸城模擬天守    by:photo-ac

東北の北部には、一城ずつ取り上げてご紹介する城郭がそれほど多くありませんので、今回は、2003年と2006年に探訪した城巡りを参考までに掲載いたします。

旅の記録が20年前と随分古いのですが、個人的な旅の記録も兼ねておりますので悪しからずご了承ください。

岩手・青森県の城巡り

2003年8月1日から1泊2日で岩手県の4城址、そして青森県の3城址を攻城しました。

伊丹空港から花巻空港へ飛んで、空港からはタクシーで花巻城に。

自動車の運転免許を持たない私はタクシーで行くしかありません。

こういうときにとても不便ですが、仕方ないですね。

駐車場で車に待っていてもらって花巻城を探訪し、花巻駅に戻り、次は盛岡に向かいました。

翌日は、青森空港から伊丹空港へ帰阪です。

この時の攻城は、往復飛行機、駅から城址まではタクシー往復と随分と費用がかかりましたが、内容の濃い城址巡りを楽しみました。

 

8月1日 花巻城・盛岡城・九戸城・三戸

花巻城岩手県

復元された西御門    by:photo-ac

花巻城は、比高約20mの丘陵上に築かれた平山城です。

土塁と水濠によって、本丸、本丸西曲輪、二の丸、三の丸が明確に区画された梯郭式の縄張りを持っています。

南部領の九戸(くのへ)城や七戸(しちのへ)城、八戸の根城などは館屋敷型(群郭式)の城郭でしたが、花巻城は進化した縄張りの城郭でした。

本丸の東端には天守に相当する菱櫓が築かれていたそうです。

花巻城は、室町・戦国時代を通じて稗貫(ひえぬき)氏歴代の居城。

天正18年(1590)の豊臣秀吉小田原城攻めにさいして参戦しなかったため、奥羽仕置において領地が没収されました。

慶長18年(1613)に、南部利直(盛岡城主)の次男・政直が城主として修築、寛永元年(1624)からは城代が置かれ、盛岡城の支城となっています。

二重の櫓門と狭間をもつ土塀が平成7年(1995)に復元され、三の丸搦手にある二重の櫓門が遺構として残っていましたよ。

二の丸周辺は鳥谷ケ崎公園として整備されています。

復元された西御門    by:photo-ac

遺構の円城寺門    by:photo-ac

 

盛岡城岩手県

盛岡城     by:photo-ac

立派な切込接ぎの石垣   by:photo-ac

盛岡城は、北上川と中津川が合流する要害の地に築かれた平山城

日本100名城(第6番)に選定されています。

本丸、二の丸、三の丸が南北方向に置かれた典型的な連郭式縄張りで、東北では珍しい立派な総高石垣の城郭でした。

各曲輪の下部に帯曲輪、腰曲輪を持った重層的な一二三段(ひふみだん)を構築しています。

本丸東南隅に天守に相当する御三階櫓が建造されていましたが、寛永13年(1636)に焼失、延宝4年(1676)に再建されました。

 

九戸(くのへ)城岩手県

九戸城へは、二戸駅からタクシーで往復しました。

九戸城は、九戸光政が明応年間(1492~1501)に築城したと伝わっています。

天正19年(1591)に、南部家当主の座を争う九戸政実(くのへ まさざね)の九戸城を、三戸城主・南部信直の頼みで豊臣秀次を総大将とする6万もの大軍が取り囲み、落城させました。

秀吉が天下統一するための最後の戦いの場となった城郭です。

信直は居城を九戸城に移して名を福岡城と改めますが、その後盛岡城へ本城を移し、九戸城は廃城となりました。

写真がないのが残念ですが、本丸には東北最古の石垣が残っています。

また空堀、土塁が残っていました。

日本100名城(第104番)に選定されています。

 

三戸(さんのへ)城青森県

三戸城模擬天守    by:photo-ac

三戸城へも、駅からタクシーで往復しています。ほんまお金使いまくりですね。

三戸城は、永禄年間(1558~70)に南部晴政によって築城されました。

馬淵川とその支流熊原川の合流点から南西に延びる河岸段丘に築かれた山城です。

留ケ崎(とめがさき)城、糠部(にかのぶ)城とも呼ばれています。

本丸、淡路丸、谷丸、家臣団屋敷のある二の丸、武者溜曲輪などが連郭式に置かれた縄張りだったようです。

城主は三戸南部氏。

天正18年(1590)、26代信直(のぶなお)の時代に、豊臣秀吉から本領安堵の朱印状をもらうと、本格的に城の大修築に取り掛かります。

それまでにあった支城を廃止し、藩庁や御殿、三重櫓などを建造し、家臣を集住させるために城下町を建設。

城は、近世城郭三戸城として生まれ変わりました。

南部当主の座を争う天正19年の九戸政実の乱の後、三戸南部信直は領地が加増され10万石の大名となりました。

信直は、それを機に居城を九戸城に移して名を福岡城と改めます。

三戸城には弟の政信を置きました。

南部氏はさらにその後盛岡城を築城し、盛岡城へ移っていきます。

上の写真は、昭和51年(1976)に開館した三重三階地下一階の模擬天守(三階櫓)。

地元では「温故館」と呼ばれる三戸町立歴史民俗資料館です。

三戸城天守に到着した時には閉館時間を過ぎていたのですが、大阪から来たのですが、と言うと入れてくださいました。その節は父がお世話になりました、無理を言ってすみませんでした!

三戸城石碑  by:photo-ac

三戸城址周辺は城山公園となり、藩祖光行を祀る糠部神社や三戸温故館、史料館などがあります。

春には、頂上まで続く三千本の桜並木が一斉に咲き乱れるとのことです。

 

8月2日 八戸城・根城・弘前城

八戸(はちのへ)城青森県

八戸城は、JR八戸線本八戸駅の近くにあります。

寛文4年(1664)に南部直房により築城されました。

本丸跡に新しい石柱の城址碑と古い八戸城跡碑がありました。

徳川幕府の扱いでは無城大名ですので陣屋しか建てられないのですが、2万石の格式にふさわしい城郭造りの陣屋であったようです。

台地の北先端部に土塁を巡らせた本丸を置き、空堀を隔てて二の丸、三の丸がある堂々とした城郭でした。

城址入口に薬医門形式で立派な大屋根を広げた旧御殿表門があります。

土塁や空堀の一部も残っていました。

本丸跡は現在、三八城(みやしろ)公園となり、三八城神社が建てられています。

 

根城青森県

根城(左側が本丸)     by:photo-ac

根城は、八戸駅からバスで15分程のところにありますが、私は駅からタクシーで行きました。

根城は、南北朝時代南朝側の、陸奥国支配の拠点の城でした。

東北の中世城郭の当時の姿がよく再現された野外博物館となっており、日本100名城(第5番)に選定され、国の史跡にも指定されています。

南部師行(もろゆき)は、建武元年(1334)に、後醍醐天網の皇子義良(よしなが)親王を奉じて陸奥に下った北畠顕家(あきいえ)の南朝軍に従って、現在の青森県八戸に来ました。

師行は、南朝側の陸奥支配の拠点の城として根城を築城。

豊臣秀吉小田原城攻撃にさいして、根城の八戸南部氏は秀吉の命に従わなかったため、寛永4年(1627)に遠野(とおの)に所領替えとなり、根城は廃城しました。

復元された竪堀住宅     by:photo-ac

根城は、馬淵川南岸の標高約120mの段丘上に築かれています。

本丸を中心に、中館、東善寺館、岡前館、沢里館によって構成された館屋敷型(群郭式)の城郭です。

各曲輪は、Ⅴ字型の薬研堀空堀によって区切られていました。

城址の本丸跡が発掘調査され、出土した建物跡を復元展示しています。

城跡は、平成9年(1997)に「史跡根城の広場」となり、主殿、工房、竪堀住居、厩、棟木門、塀重門、柵、倉庫などが木端葺きで復元されました。

400年前の当時の姿を見せていますよ。

 

弘前城青森県

下乗橋から見た弘前城天守    by:photo-ac

弘前城天守は「御三階櫓」と呼ばれる三重三階層塔型独立式天守です。

2023年現在、天守があった場所の石垣が修理中のため、曳家(ひきや)という工法で本丸の方に引き寄せられています

弘前城の修繕についてはこちらをどうぞ!わかりやすいうえに面白いですよ~

www.hirosakipark.jp

弘前城天守は、大手門から入城してきて下乗橋から見る姿が最も美しく見えるように、二ノ郭側の東面と南面の一重目と二重目に出格子窓と切妻破風が付けられています。

移動した弘前城天守     by:photo-ac

しかし上の写真でもわかりますが、本丸(右)側には破風や出格子窓はなく、窓も格子窓ではなく方形の窓が付けられていて、全体的にのっぺりした印象ですよね。

これは、もともとあった三重の櫓を修築して天守の代用としたためです。

 

弘前城は、大手門を含め立派な二重櫓門が五基、三重の隅櫓が三基遺構として残る東北屈指の名城です。

日本100名城(第4番)に選定、国の史跡にも指定されています。

 

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青森・秋田県の城巡り

続いて、これまた古い記録で恐縮ですが、2006年7月4日から1泊2日で青森県の七戸・浪岡・黒石城と秋田県の大館城・五城目城を攻城したときの記録です。

城の写真が少なくてすみません。

 

7月4日

七戸(しちのへ)城青森県

この城跡を見るために、伊丹空港から三沢空港へ飛びました。

運賃の割引もなく、沖縄に行くより高い飛行機代でした。オトン、家事育児放置して好き勝手お金使っといてよく言うわ。

三沢駅から当時まだ存続していた十和田観光電鉄(2012年4月1日に廃線)に乗って十和田市駅、そこからタクシーで七戸城跡まで行きました。

七戸城は、七戸南部氏の居城で、14世紀末から15世紀初頭の築城です。

天正19年(1591)には九戸政実の乱に加担して敗北し、七戸城は廃城となりました。

南部藩領となった江戸時代に新たに築城されましたが、城主が盛岡藩第4代藩主(南部重信)となったため再び廃城。

城跡には、移築門と石碑があっただけでした。

 

7月5日

浪岡城青森県

浪岡城へは、奥羽本線浪岡駅から徒歩20分ですが、タクシーで行きました。そのくらい歩きなさいよ。

浪岡城は、続日本100名城(第103番)に指定されています。

南北朝時代南朝方重鎮・北畠親房(ちかふさ)の後裔と伝わっている浪岡氏が築城しました。

浪岡川右岸に築かれている浪岡城は、「浪岡御所」と尊称された中世の城館で、15世紀の半ば頃に建造されたと考えられています。

東側から新館(しんだて)、東舘、外郭、猿楽舘(さるがくだて)、北館、内館、西舘、検校舘(けんぎょうだて)の八つの曲輪が配置。

曲輪と曲輪の間は、幅約20mの水濠と土塁で区切られていた館屋敷型(群郭式)の城郭です。

天正6年(1578)、大浦(津軽)為信に敗れて滅亡し、浪岡城は廃城となりました。

 

黒石城青森県

黒石城へは、JR弘前駅から弘南鉄道に乗り、境松駅下車、徒歩5分です。

黒石城は、明暦2年(1656)に弘前藩津軽信義(のぶよし)の弟信英が藩の領土を分割されて築いた黒石藩1万石の陣屋ですね。

陣屋跡は御幸公園になっていて、年配の方々がゲートボールをしていました。

公園の端の方に石碑が建てられていて、やっとその場所が黒石城跡と分かりました。

 

大館城秋田県

大館城へは、JR奥羽本線大舘駅からタクシーで往復しました。

天正10年(1582)以前に、浅利勝頼によって築城されたようです。

江戸時代には佐竹氏の所領となり、南の横手城に並ぶ久保田城の北の支城として、一国一城令の例外で存続が認められた城でした。

城跡は桂城公園として整備されていて、水濠や空堀、土塁がわずかに残っているだけです。

 

五城目秋田県

五城目城へは、JR奥羽本線八郎潟駅からタクシーで往復しました。

駐車場でタクシーを降りると、上のほうに明らかに模擬天守と思われる建物がありました。

五城目城    by:photo-ac

三重三階の層塔型で、三重目には手摺の部分が朱色の廻縁が付けられていました。

しかし、それは五城目町立森林資料館として建造された「天守風」の建造物でした。

森林と人間の関わり、町の歴史が紹介・展示されていました。

最上階のバルコニーから五城目町が一望できたことが救いでしたね……。

 

秋田空港から帰阪です。

この2日間に探訪した城跡には遺構がほとんどなく、費用が高かった割には収穫が少ない城跡巡りでした。好き勝手しといて文句ばっかり。

本心は、城跡巡りでもしない限りは乗ることがない十和田観光電鉄弘南鉄道に乗りたくて、こんな城跡巡りを計画したのかもしれないですね。

時には、こんな城巡りの旅もしていましたという報告でした。

 

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【参考文献】

平井 聖監修『城 1 北海道 東北 吹雪舞うみちのくの堅城』(毎日新聞社 平成9年3月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)他