水戸城は、慶長14年(1609)に徳川頼房が入城して以来、御三家水戸徳川家の居城となった城で、平山城です。
現在ある水戸城大手門は、「一枚瓦城主」による寄付金が充てられ、令和2年に復元されました。
水戸城は「日本100名城」(第14番)に選定され、国の特別史跡にも指定されています。
別称は馬場城。
私は水戸城へ、1998年11月14日に登城しました。
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鎌倉時代の初め、この地の豪族であった馬場資幹(すけもと)が水戸明神の馬場に居館を営んだのが、水戸城(馬場城)の始まりのようです。
室町時代の中期になると佐竹氏の武将・江戸道房(えど みちふさ)が入り、城郭として整備します。
この頃から地名を水戸と呼ぶようになったらしいですね。
天正19年(1591)に江戸氏を滅ぼした佐竹義宣(よしのぶ)が水戸城を大改修して近世城郭とし、あわせて城下の整備を行います。
義宣は、慶長2年(1597)には水戸城を一応完成させました。
しかし同5年の関ヶ原の戦いで徳川方に協力しなかったため、慶長7年に出羽国秋田に転封となってしまいます。
徳川家康は、東北の諸大名に対する牽制の拠点として水戸を重視。
最初は五男で武田氏の名跡を継いだ武田信吉(のぶよし)を、次いで十男徳川頼宜(よりのぶ)を、そして慶長14年には十一男の頼房(よりふさ)を、佐竹氏の領地だった藩領支配の為に25万石で入封させます。
頼房は入城すると、それまでの城郭に大幅な縄張りの変更とともに、大規模な改修を実行。
近世城郭としての水戸城を完成させました。
しかし、幕末の元治元年(1864)に起こった天狗党の乱などで、城内の建物のほとんどを焼失してしまいます。
徳川頼房の水戸徳川家が、11代約250年の間、35万石を領して明治を迎えます。
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水戸城は、北に那珂川(なかがわ 上の黒い部分)と南側は千波湖(せんばこ 下の黒い部分)の間に広がる、低湿地に舌状に突き出した台地にあります。
城郭は、東から浄光寺曲輪(東二の丸、下の丸)、本丸、二の丸、三の丸を順次連郭式に配した縄張りです。
石垣は築かれず、深い濠と空堀で囲まれていました。
上の絵図でもわかるように、西側の丘続きの場所が防衛上の弱点となっていますね。
その西南の場所に、城郭施設としてではなく庭園としての偕楽園を造り、守りを固めたのです。
徳川氏以降は、二の丸が中心で御殿や天守代わりの御三階櫓も二の丸に建造されています。
本丸内には、蔵や厩以外の建物はなく、北東隅に二重櫓と南西隅に月見櫓が置かれただけ。
そして東二の丸も南東隅に二重櫓が一基と浄光寺門があるだけで、ほとんど建物は建てられなかったようです。
御三家の城郭としては最も質素な城といわれています。
何故、御三家に相応しい立派な城郭を造らなかったのでしょうか。
すごく不思議です。
明和元年(1764)の火災で、三階櫓や二の丸御殿などが全焼しましたが、再建されていますよ。
二の丸御殿脇に築かれた三重五階建ての御三階櫓が、天守に代わるものでした。
破風などの装飾が全くない層塔型の櫓です。
櫓台の石垣がないので、一重の部分を高くして、内部は三階建てになっていました。
一重目の一階部分は海鼠壁ですね。
三階櫓は、残念ながら第二次世界大戦の時の空襲で焼失してしまいます。
城址は現在、小学校や中学校、高校などの敷地となっており、弘道館や偕楽園が観光地として賑わっていますね。
天保12年(1841)に、水戸城三の丸に藩校として弘道館を造りました。
この弘道館が水戸学の中心となり、多くの人材が輩出したのですね。
幕末の水戸藩は、勤皇派と佐幕派の対立が激しく、戊辰戦争のときも三の丸と弘道館が占拠され、この戦いで弘道館の武館・文館・医学館が焼失しています。
現在は、正庁、至善堂、そして正門などが残っていますよ。
藥医門は、水戸城唯一の遺構です。
本丸の橋詰御門だったようですね。
蟇股や組物の形から、佐竹氏時代の門と考えられています。
本丸への入口にあった門で、昭和56年(1981)に本丸内に移築復元されました。
現在は、本丸跡地にある水戸第一高等学校の校門として使われています。
こんな立派な校門を持っているのは、東京大学の赤門ぐらいでしょうか?
偕楽園は、岡山城の後楽園、金沢城の兼六園とともに、日本三大公園として名高い名園です。
斉昭が「士民と偕(とも)に楽しむ」という趣旨で、千波湖を一望する高台に造りました。
100種類、約3,000本の梅で有名ですね。
しかし、大名が領民のために造った単純な庭園ではないという説もありますよ。
元和元年(1615)に徳川幕府が発令した一国一城令と武家諸法度によって、御三家といえども、勝手に城郭の拡張が出来なくなりました。
そこで水戸徳川家は、天保13年(1842)に庭園偕楽園を築きます。
偕楽園は、城主の別邸と大名庭園でしたが、城の弱点である西側を守る出城でもありました。
有事のさいには、梅の木で敵の侵入を阻むとともに、実は兵糧として活用するつもりだったようです。
園内に建造された好文亭は二重三階建て、杮葺(こけらぶき)寄棟造の風雅さの漂う造りですが、物見櫓や天守に相当するものでした。
水戸といえば黄門さん。
光圀は江戸の藩邸に全国から学者を集め、『大日本史』を編纂したことで有名です。
徳川光圀は尊王を唱えて、幕府から猜疑の目でみられていたといいます。
光圀だけでなく幕末の斉昭に至るまで、水戸藩は徳川の御三家でありながら、一貫して尊王派の藩でした。
斉昭は藤田東湖を側用人として、藩政の改革なども行わせました。
しかし、尊王攘夷の鼓舞にも力をいれ、幕府からたびたび謹慎を命じられていましたよ。
こちらYouTubeで見つけた、三の丸の水戸城址二の丸展示館に設置された「復元想定模型」です。分かりやすいので、ぜひご覧ください。
次の水戸城紹介の動画は、現在の水戸城の姿が良く分かる動画です。随分と復元が進んでいるのですね。驚きです。
*水戸城詳細
・営業時間:24時間
・休業日:なし
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【参考文献】
平井 聖監修『城 2 関東 もののふ集う東国の城』(毎日新聞社 平成9年2月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、『城 其ノ二』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、南條範夫監修『日本の城 名城ガイド』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日初版発行)他
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