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55回目になりました。
標高約90mの半島の勝男岳(垣添山)に築城された平山城で、別称は左縄(さなわ)城です。
「日本100名城」(第87番)に選定されています。
豊臣秀吉は、天正19年(1591)朝鮮半島への出兵を決め、その出陣基地となる城を肥前名護屋の地に築き始めました。
東松浦半島の先端近くです。
翌年には秀吉の御座所(陣城)にふさわしい規模の、大坂城や聚楽第に匹敵する壮麗さを兼ね備えた五重の天守をもつ大城郭が完成。
単なる陣城ではなく、いわば天下人の居城と言うような大城郭です。
朝鮮に出兵する諸大名の陣屋も周囲に造られ、小さな一漁村はわずかの間に大都市に変貌したのですね。
文禄・慶長の役(1592、1597)では海を渡って朝鮮に出兵した兵士は約15万人。
そして陣に留まっていた兵士もほぼ同数。
慶長3年(1598)に秀吉が死んで朝鮮から兵士が引き上げるまでの約6年余り、名護屋城周辺は、大名や兵士はもちろんその食料や日用品を賄うための商人などを含めて、約30万から40万人が暮らし往来する一大軍事・商業都市だったのです。
お城を建てるのに名護屋の地が選ばれたのには、二つの理由が考えられています。
まず、大陸出兵への中継地点となる壱岐に最も近いこと。
さらにこの地方はリアス式海岸で、多数の船が波静かな名護屋浦に入ることが可能なためです。
秀吉は出兵が決まると諸大名に準備を命じたのち、黒田如水を総奉行とし、築城を命じます。
場所は松浦党波多三河守親(はた みかわのかみ ちかし)の家臣・名護屋越前守経述(なごや えちぜんのかみ つねのぶ)の居城であった垣添(かきぞえ)城だったところですね。
黒田の縄張りに基づき、加藤清正、寺沢広高(ひろたか)を普請奉行とし、小西行長ら九州諸大名の手伝い普請(「割普請」)の方法により、短期間で巨大城郭が出来上がりました。
城郭は、本丸を中心に左側に二の丸と弾正丸、右側に三の丸と東出丸、北側天守台の下に遊撃丸と水手曲輪、東側の一段下がったところに上山里丸と下山里丸、そして台所丸が配されています。
三段構えの渦郭式に近い梯郭式縄張りです。
大手口から本丸へ登る道は原則として左折するところから、左縄城の別称が生まれました。
絵図によると、本丸の西北隅に五重六階地下1階建ての天守がそびえています。
望楼型で付櫓を持つ複合式天守だったようです。
当時の見聞録によると、天守の屋根は黄金の瓦葺で御殿の部屋はほとんどが狩野派の障壁画で飾られていたと伝わっています。
御殿や隅櫓、櫓門などが数多く建てられていました。
桃山様式の大城郭は、その規模と豪華さにおいて大坂城と並び称されるものであったと言われています。
本丸大手門は二重の豪壮な櫓門です。
秀吉との約束で廃城の時、伊達政宗が仙台青葉城の大手門として移築しました。
仙台城の古写真を見ると本当に立派な旧国宝の大手門でしたが、第二次世界大戦で焼失しています。
とても残念ですね。
仙台城二の丸大手門と続き櫓(『日本の名城 古写真大図鑑』より)
私が名護屋城へ登城したのは、2002年11月9日のことです。
名護屋城が単なる出撃基地の陣城でなかったことは、残っている「名護屋城図屏風」を見ると明らかです。
朝鮮や中国を征服した暁には、各国の王や使節が来日するでしょう。
その際にはまず名護屋城で受け入れ、その巨大さと豪華さで相手を驚かせ、萎縮させるつもりだったのだろうと推測できます。
秀吉は、天下取りのあとの生涯、ほとんど休みなく華やかな城を造り続けています。
名護屋城の完成する前からすでに伏見城の築城が始められています。
秀吉の直臣たちは、次から次へと新しい城造りに駆り立てられます。
しかし、こうした秀吉の新たな築城が、豊臣家臣の大名が築城法を学び、近世城郭が一気に全国に広まったことに繋がっているのだと個人的には思います。
名護屋城は、秀吉の死後まもなく廃城となりました。
寺沢広高は、慶長7年から自分の居城である唐津城を築くときに、名護屋城天守などを解体して用材を唐津城に移築しています。
徳川幕府は、島原の乱のあと一揆の拠点になることを恐れて石垣を破壊しました。
そして、この地はあっという間に元の寒村に戻り、つわものどもの夢の跡となってしまったのです。
名護屋城址と100余を数える陣屋址は、石垣などの保存状態が良いことから、国の特別史跡に指定され、発掘調査と城郭の整備がされています。
登城した日は大変天気が良く、本丸からの360度の眺望があまりにも素晴らしかったです。
しばらくは動くことができませんでした。
秀吉も同じ景色を見て悦に入っていたんだろうと感慨深いものがありました。
近くにある佐賀県立名護屋城博物館では、肥前名護屋城復元模型や「肥前名護屋城図屏風」などが展示されています。名護屋城の当時の姿がよく理解できます。
必見ですので、ゆっくり見学してください。
↓↓名護屋城博物館の公式サイトです。来訪まえに確認してみてくださいね。
【長崎・佐賀県4城探訪の旅】
2002年11月8日長崎空港に到着。
1泊2日の城巡りで、今回の目玉は名護屋城址です。
空港の対岸にある大村城をまず探訪。
板敷(いたじき)櫓という珍しい名前の二重隅櫓や土塀が復元されています。
下から見上げる景色はなかなか良かったですね。
城址は大村公園となっていて桜の名所。
現地では玖島(くしま)城と言いました。
大村藩お舟蔵跡の遺構は珍しいですよ。
偶然近くに三城(さんじょう)城という城跡があることが分かったので行きました。
大村純忠(すみただ)の居城で、子の喜前(よしあき)の時に玖島城に移ったということが後で分かりました。
思った以上の広大な城域で、本丸址から島々と玄界灘を眺める景色は本当に気持ちの良いものでした。
佐賀県立名護屋城博物館でゆっくり展示を見て、バスで唐津に戻り、唐津城に登城。
2回目なのでゆっくりと楽しみました。
*名護屋城詳細
・アクセス:「佐賀県立名護屋城博物館」へのアクセス:JR「西唐津駅」で下車。道路を渡り、西唐津駅前バス停から呼子方面のバスに乗車。「名護屋城博物館入口」停留所から徒歩5分
・営業時間:城址は24時間
・休業日:城址は年中無休
【参考文献】
『名護屋城跡と陣跡「文禄・慶長の役」―つわものどもが夢の跡』(佐賀県鎮西町教育委員会)、 平井 聖監修『城 8 九州 沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社2010年6月20日初版発行)、石井進監修『文化財探訪クラブ6 城と城下町』(山川出版社 1999年㋆25日1版1刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城其ノ三』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)他