今帰仁(なきじん)グスクは、沖縄本島北部にある本部(もとぶ)半島の北側標高100mの丘上に築城された、天然の要害の山城です。
別称は北山城、山北今帰仁城。
2006年に日本100名城(第98番)に選定されています。
平成12年(2000)の12月には、首里城(第34回)をはじめ中グスク(第2回)・座喜味グスク(第52回)・勝連グスク(第11回)と今帰仁グスクの5つのグスク跡とその他4つの資産が一緒に、日本で11番目の世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」に登録されています。
琉球本島では、本土の室町時代に当たる時代を三山鼎立(さんざんていりつ)時代と言います。
今帰仁グスクは北山王(ほくざんおう)の、浦添グスク(うらぞえぐすく)と首里城は中山王(ちゅうざんおう)の、南山グスク(なんざんぐすく)は南山王の居城でした。
今帰仁グスクは、美ら海水族館や古宇利島とともに沖縄北部の観光地として有名なところにあります。
1.5㎞にも達する長蛇のような城壁が、まるで万里の長城のミニ版のように幾重にもめぐり、美しい姿を見せていますよ。
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今帰仁グスクへは1996年9月8日に登城しました。
泊港に面して海を見下ろし、両側を断崖に囲まれた丘の上に13世紀末から14世紀初めにかけて築城。
14世紀前半頃より琉球石灰岩を利用した石垣が築かれ、15世紀前半には城域が拡張されて多くの郭からなる現在の姿になったと考えられています。
首里城に次ぐ広大な城域と複雑な縄張りで、遺構がよく保存されています。
中国明朝の記録によると、元亨(げんこう)2年(1322)には怕尼芝(はにし)が在城し、1383年明に進貢、1385年には冊封を受けて北山王を称しました。
その後1416年(1422年説もある)に琉球統一を目指す尚巴志(しょうはし)に攻撃を受けますが、要害堅固な今帰仁グスクは容易には落城せずだったのですね。
しかし、結局は謀略によって滅ぼされ、北山としての歴史は閉じます。
中国皇帝から「北山王」と認知されてからわずか33年で、まぼろしにも似た「北山王国」の運命でした。
敗北後の今帰仁グスクには北方防衛の基地として北山監守(ほくざんかんしゅ)が置かれます。
後に座喜味グスクを築城し、その後中グスクの城主となる読谷山按司護佐丸(よみたんざんあじ ごさまる)が入り、居城としていました。
主郭にある火の神の祠の前向かって右側に、「山北今帰仁城監守来歴碑記」の石碑が建てられていますよ。
しかし、慶長14年(1609)に薩摩の島津軍による琉球侵攻に遭い、グスクは炎上、廃城となります。
それからは、地元の人々の神聖な祈りの場としてグスク内にあるいくつもの御嶽(うたき 拝所)が長く大切に守られてきました。
城郭への正門は、平郎(へいろう)門と呼ばれる石垣の中の埋門のような門です。
左右には短冊形の狭間が切られていますが、城壁内から見ると部屋の壁に開けられた覗き穴のようで、門番が見張りをするためのものだったと思われています。
この門は昭和37年に造られたものですが、当時と同じ形のものが復原されたのかどうか分かりません。
初めて今帰仁グスクに行ったのはいつだったのか記録がないので分かりません。
最初訪れたとき、この門の手前の所にコンクリート造り(多分)の大きな鳥居がありました。
今はありませんが、鳥居は戦前の日本の「皇民化」教育のため、昭和5年に建てられたものらしいです。
沖縄各地の御嶽やグスクにも次々と神社鳥居やヤマト神を祀る祠などが建てられ、国家神道への変換が図られていきました。
大正13年に首里城は「沖縄神社」、南山グスクは「南山神社」と改称されます。
今帰仁グスクは昭和18年に北山神社として改修することが決められていましたが、第2次世界大戦で実現されなかったようです。
数年前に名護グスクに行ったとき、石段を上がったグスクの城郭内に社のような建物があり、石段の手前の方に鳥居があったと記憶しています。
大手門に当たる平郎門から二の曲輪、大庭(ウーミヤ)に至る道ですが、七・五・三の真直ぐな階段の石道は昭和34年に新しく造られたものです。
本土のテレビコマーシャルで度々使われていますよね。
本来の道は手前右の階段を下りて上がってゆく、あまり整備されていない道です。
城郭最高所・主郭(一の曲輪)では、発掘調査で掘り出された翼廊のある基壇や、築城の造成の様子がわかる版築(はんちく)工法が見られます。
また監守時代の建物の礎石も残っています。
グスクと言われる沖縄の城には、多くの場合その発生過程からしても宗教的な性格が強いもの。
当初から本土の城にあるような、天守的な建造物や櫓などはありませんでした。
そのかわり、城内には火の神を祀る拝所や御嶽があります。
樹木の根元を囲むように小さな石垣がある所などがそうです。
今帰仁グスクには、城郭内に祭祀を司る神女(ノロ)たちの館があったと言われています。
搦手方面に進むと武家屋敷群があった跡が確認され、その周りを取り囲むように曲線を描いた石垣はほぼ原形を留めています。
裏門の志慶真門(しじまじょう)がありました。
ここまで探訪する観光客は少ないですが、是非足を延ばして行ってみてください。
城壁は琉球石灰岩の岩片を、高さ5~8m、上部の幅2~3mに巧みに積み上げ、城の周囲を屏風型に近い曲線を描いて囲んでいます。
その長さが前述した約1.5㎞!!
本土での総石垣による大規模な近世城郭は、織田信長による安土城築城に始まると考えられています。
こちらは琉球石灰岩という加工しやすい石を用いているとはいえ、それよりも200年前にこうした石垣の城が造られられているというのは特筆すべきことです。
志慶真門郭の曲線を描いた石垣はほぼ原形をとどめているとのことです。
発掘調査で武家屋敷跡が確認されています。
城内で一番広い曲輪、大隅(ウーシミ)です。
城壁の修復や試掘の際、馬の骨や歯が大量に出土していることから馬の飼育や調教をしていた場所と考えられています。
中央部に抜け穴に利用されたとみられる洞窟がありますよ。
志慶真(しけま)川の崖の中腹に抜け出るそうです。
今帰仁グスクには鎮西八郎源為朝(ちんぜいはちろう みなもとのためとも)が漂着し、北山王の先祖舜天王(しゅんてんおう)の先祖となったという伝承も残っています。
今帰仁グスクの北方の運天港付近には、運を天に任せて上陸したという為朝の上陸碑が立っているそうですよ。
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今帰仁グスクは沖縄の桜の名所としても有名ですよね。
1月から、美しい桜が見られます。
そして訪問時にはぜひ立ってほしいのが、絶景ポイント。
御内原(ウーチバル)の北側、一段高くなったところは今帰仁グスクで最も見晴らしの良いところで、東シナ海のきれいな海が見えます。
心が洗われるようですよね。
世界文化遺産に登録されてから、今帰仁グスク周辺が随分整備されましたね。
私が初めて探訪したときはトイレすらありませんでした。
現在は、今帰仁グスク跡をはじめ今帰仁村の歴史と文化を紹介する「今帰仁村歴史文化センター」や、グスクの入場券販売、世界遺産や今帰仁グスクの解説を映像で紹介している「今帰仁村グスク交流センター」などがあります。
休憩所だけでなくアイスクリームなども販売していますので、口のお楽しみにもどうぞ。
ちなみにホームページも作られていますので、のせておきますね。
美しい光景が見れますので覗いてみてください。↓↓
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*今帰仁グスク詳細
・アクセス:沖縄バス65番・本部半島(渡久地)線/沖縄バス66番・本部半島(今帰仁)線
・営業時間:8:00~18:00(夏季は19:00)
・休業日:年中無休
【参考文献】
文・岡田輝雄 写真・国吉和夫『世界遺産グスク紀行―古琉球の光と影』(琉球新報社 2003年5月20日第2刷発行)、平井 聖監修『城 8 九州・沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、「世界遺産今帰仁城跡」パンフレット他