日本全国にあるお城。
見ていく中で「ん?」と感じたことを書いていく「かるーいお城の雑学」です!
今回は、明智光秀ゆかりの城を紹介していきましょう。
光秀は、居城である坂本城を築城してから、軍事拠点の城や経済拠点の城などを次つぎと築きます。
しかし、妻子のいる居城の坂本城にも、それ以後築いた城にもほとんど在城することはなく、織田信長の家臣として戦いに明け暮れていました。
そして、享年55歳で草葉の露と消えていきます。
なぜ明智光秀は、主君の織田信長に謀反を起こしたのか、戦国時代最大の謎はこれらの城を探訪してもわかりません。
しかし今回は、明智光秀を偲びながら3つの城と、最後の夜を過ごした娘婿の城を紹介してゆきます。
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まずは、坂本城からですね。
坂本城は、光秀が織田信長の命令に服しない比叡山延暦寺を討伐した恩賞として与えられた比叡山東麓の地・坂本に築城したお城です。
1.坂本城
坂本城は、資料も遺構もほとんど残っていないので、どんな城郭だったのかが分からない「幻の城」といわれています。
坂本城は元亀2年(1571)、比叡山東麓坂本の要衝に築城された、光秀の居城ですね。
天正10年(1582)の本能寺の変で光秀が信長を討ったあと、光秀が羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れると、坂本城は炎上します。
翌年には杉原家次、続いて浅野長政が城主となりますが、天正14年に長政が大津城を築いて移ると、坂本城は廃城になります。
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2.丹波亀山城
丹波亀山城は、明智光秀が丹波攻略のために天正5年(1577)から中世の砦跡を拡張・改修し、築城した平山城です。
ここから、主君織田信長を討つために出陣しました。
築城した光秀は、この丹波亀山城にどれくらいの時間在城したことがあったのでしょうか……。
そして関ヶ原の戦いの後は、丹波国の枢要の地として徳川譜代大名である岡部長盛(ながもり)が入封します。
徳川幕府は、豊臣大坂城を包囲する軍事上の重要な城郭として、幕命で丹波亀山城を大修築しました。
この時、名築城家である藤堂高虎によって日本初の層塔型天守が築かれ、本格的な近世城郭に生れ変わりました。
一説では、高虎が今治城に築いた天守を移築したともいわれています。
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3.福知山城(続日本100名城)
福知山城は、主君の織田信長から丹波平定を命じられた明智光秀が、天正7年(1579)頃に築城しました。
元々は横山城があった場所でした。
光秀は、福知山築城後城代として娘婿の明智秀満を入れて、福知山の統治を任せます。
そのわずか3年後の天正10年(1582)に起きた山崎の合戦で、光秀は羽柴秀吉に討たれ、城代秀満も滅ぼされてしまいます。
光秀滅亡後は、福知山城は一時的に羽柴秀長が管理しますが、その後坂本城主だった杉原家次などが城主を務めています。
関ヶ原の戦いの後、家康の命令によって福知山城は、豊臣大坂城の包囲網のひとつの城として有馬豊氏(とようじ)が6万石で入封し、福知山城を改修しました。
この頃、平山城の福知山城はほぼ完成し、現在の姿になったようです。
現在の天守は、昭和61年(1986)に3重4階の望楼型の大天守と2重2階の小天守が連結した形で復元されました。
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4.勝龍寺城
織田信長の命によって、元亀2年(1571)に細川藤孝(幽斎)が近世城郭として改修しました。
明智光秀は本能寺の変後、丹後にいた娘、絶世の美女といわれた玉(ガラシャ)の夫細川忠興と藤孝親子に加勢を頼みます。
しかし藤孝は、主君信長の死を悼み出家、幽斎と名乗り、息子忠興に家督を譲ります。
藤孝・忠興親子は、結局光秀の味方には加わりませんでした。
光秀は「中国大返し」で京に向かってくる羽柴秀吉を迎え撃つために、勝龍寺城を拠点とします。
圧倒的な秀吉の軍勢に敗れた明智光秀は勝龍寺城に退却し、娘が幸せな2年間を過ごした城で最後の夜を過ごします。
非常に親しかった盟友・細川藤孝、そして娘婿・忠興の二人とも間違いなく自分の味方をしてくれることを夢にも疑わなかった光秀は、この城の中、どんな気持ちで最後の夜を過ごしたのでしょうか。
光秀は、夜陰に紛れて勝龍寺城の北門から脱出します。
今も当時の石垣や門の礎石が、遺構として残っていますよ。
光秀は居城の坂本城へ逃げ延びようとしますが、伏見小栗栖の藪で落ち武者狩りに討たれ、亡くなりました。
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以上、明智光秀が築城した3つの城と、最後の夜を過ごした城を紹介しました。
今回は取り上げませんでしたが、光秀ゆかりの城といえば八上城や黒井城など、光秀が落城させた城もありますよ。
[明智光秀に関するとっておきの話]
筆者は未探訪ですが、福井県一乗谷の近くに東大味町というところがあります。
光秀がかつて信長に仕える前に住んでいて、娘の玉(ガラシャ)が生まれたところです。
光秀の屋敷跡と伝わる場所に、小さな祠・「明智神社」があり、そこに高さ13㎝程の木彫りの明智光秀坐像が祀られています。
東大味町の3軒の農家が、「あけっつぁま」と呼び、「生きているのは光秀公のおかげ」といって、光秀の像をひそかに400年以上守り続けてきたと伝えられています。
信長の朝倉攻めの際、光秀は西蓮寺を中心としたかつて自分が住んだ場所の「安堵」を柴田勝家に頼みました。
そのことから、東大味は戦禍から救われたのですね。
その感謝の気持ちから光秀像が祀られたようです。
逆臣の汚名をきせられた明智光秀を祀ることは到底許されることはなかったので、3軒の農家の方がたは、明治になるまでひそかに光秀の坐像を守ってきたのだそうですよ。
【参考文献】
平井 聖監修『城 5 近畿 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第1刷発行)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)、「福知山城パンフレット」(福知山城天守閣)、「勝龍寺城パンフレット」(長岡京市役所商工観光課)、「丹波亀山城と大本パンフレット」(大本教学研鑽所事務局)、「京都・亀岡 明智光秀マップ」(発行亀岡市 2021年2月作成)「明智光秀と一乗谷(パンフレット)」(一乗谷朝倉氏復元町並)他
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