寛永14年(1637)に勃発した島原・天草の乱で、天草四郎率いる一揆軍が立て籠もり、幕府軍と壮絶な戦いのあと全滅した原城ですね。
本丸に建てられている天草四郎像は、長崎の平和記念像などを手掛けた北村西望(せいぼう)氏(南島原市出身)の製作です。
原城は、「続日本100名城」(第188番)に選定され、国の史跡にも指定されているうえに、世界遺産の城址です。
平成30年に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産となっています。
別称は、日暮(ひぐらし)城。
私は、2008年2月23日に登城しました。
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原城は、明応5年(1496)に有馬貴純(たかずみ)が築いたとも、慶長年間(1596~1615)に有馬晴信(はるのぶ)が新たに築城したともいわれています。
有馬直純(なおずみ)は原城に入ったときに石垣などを築き、近世城郭に改築。
有明海に突き出た標高31mの高台にあり、断崖を背にした要害の上に築かれた「後堅固の城」です。
沖合をとおる船から、その美しさに人々が見とれたことから日暮城とも呼ばれていました。
有馬直純は、慶長19年(1614)に日向国延岡城へ転封されます。
そして、代わって元和2年(1616)に、松倉重政が大和国五条から4万石で入封しました。
松倉氏は原城や日野江城を廃城とし、城の石垣などを取り壊して島原に運び、新たに島原城を築城します。
築城に7年の歳月がかけられ、多数の櫓をもつ島原城は、4万石の石高に対して10万石規模の大き過ぎる強大な城郭でした。
その築城は、領民への過酷な課役や年貢となり、島原・天草の乱の原因のひとつとなったといわれています。
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原城は、海岸に半島状に突き出た丘陵上に築かれた城です。
まわりを有明海に囲まれ、西側は湿地帯で、容易に攻められない天然の要害でした。
本丸を中心に、二ノ丸、三ノ丸、天草丸、鳩山出丸などの曲輪を配置。
周囲の地形をうまく取り込んだ、周囲約4Kmの縄張りでした。
本丸は石垣で囲まれ、天守が築かれた有馬氏の居城として誇れるものだったようです。
島原・天草の乱は、一般的にはキリシタン弾圧への反乱といわれています。
たしかにキリシタンの農民が多かったようです。
しかし松倉氏の領内の住民と小西行長領の天草地方の住民たちが、過酷な課役、重税などに我慢しきれなくなった結果、一般の農民たちも含めて立ち上がったのです。
天草には、関ヶ原の戦いで滅亡した小西行長の帰農した遺臣たちがいました。
彼らの多くが、熱心なキリシタン信徒でした。
そして原城に籠城したのはキリシタンだけでなく、浪人や女性、子供、老人などを合わせて約37,000人だったと言われています。
一揆軍の指揮官クラスは帰農した武士たち。
当時15、6歳の少年が、世直しのリーダーとして、幕府軍に対する一揆を導いていきます。
一揆軍は、まず島原城を攻めますが、藩兵たちが守る堅城の島原城を落せませんでした。
次に富岡城も攻めますが、ここも同じく落城させることができません。
天草四郎の一揆勢は、島原と天草の両一揆勢が合流して、約12万5千人の幕府の連合軍を迎え撃つことに。
当時廃城となっていた原城址に籠城して、戦うことにします。
鎮圧を急ぐ幕府勢は、統制の取れない攻撃により大損害がでます。
幕府軍は原城の城壁を突破できず、兵糧攻め案を取ることにしました。
籠城後3カ月が経過すると兵糧攻めの効果が出始め、その後、江戸幕府から改めて派遣された松平信綱による総攻撃が開始されました。
幕府軍にも8,000人もの死傷者が出ますが、3万人以上の籠城衆を皆殺しにし、乱は鎮圧。
寛永15年(1638)2月28日の早朝でした。
一揆鎮圧後、原城は以後の一揆軍や反乱軍の砦として使えないように、徳川幕府の命によって破壊されました。
島原藩主であった松倉勝家はその責任を問われ、領地没収のうえ美作に配流となり、そこで斬首。
天草に飛び地を持っていた唐津城主の寺沢堅高は、天草の領地を没収されました。
寺沢は後に気が狂い自害、寺沢家は無嗣断絶となっています。
この乱で、島原と天草一帯はほとんど無人の原野となったそうです。
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この三つの小像は、左からフランシスコザビエル、天草四郎、四郎の姉のお福だそうです。
島原と天草の領民が、一揆の談合をした湯島(談合島)を見ているのだといわれています。
平成4年(1992)から始まった発掘調査により、十字架などのキリシタン遺物のほか、巨大な虎口の遺構や石垣などが確認されました。
これにより、島原の乱のときには城としての機能を備えていたと考えられています。
発見された十字架は鉛製で、籠城中の信者が火縄銃の弾を溶かして作ったものだそうです。
また、焼土のなかからのキリシタン関係遺物の出土には必ず人骨が伴っており、籠城中の信者が最後まで握りしめていたと考えられています。
島原・天草の乱の壮絶な様子が伺えますね。
島原文化センターには発掘されたものが展示されていますので、是非ご覧いただきたいものです。
写真のカラフルなお城は、高さ15m、幅15mのベニヤ板製模擬天守です。
2022年3月、ベニヤ板130枚を使って、大阪城天守をモチーフに地元の町おこし団体「歓皆(かんな)の会」が、原城二ノ丸跡に製作したものだそうです。
島原・天草の乱37,000人以上の犠牲者を追悼するイベントで、1996年から毎年「原城一揆まつり」が開催され、その祭りのシンボルとなっています。
2008年2月23日から、1泊2日で長崎県の4城址を探訪しました。
原城と島原城探訪が主な目的でしたが、島原半島を観光も兼ねてぐるっと回りました。
また、島原鉄道の加津佐駅から島原外港駅までの間が、2008年4月1日付で廃線になります。
その前に、島原鉄道を端から端まで楽しんでおきたいとも思って出かけた旅でした。
2月23日
釜蓋城(かまぶたじょう)は、有馬氏の家臣・千々石(チヂワ)直員が城主を務めていた城です。
標高154mのところにある山城ですね。
千々石直員は、天正10年(1582)出発の天正遣欧少年使節のメンバーだった千々石ミゲルの父です。
直員は、有馬氏の家臣として龍造寺隆信と戦いますが、敗れて自刃してしまいました。
江戸時代になって入封してきた松倉重政は、島原城築城のために釜蓋城を廃城し、石垣などを島原に運びこみます。
城跡は公園として整備され、グランドの上に櫓風の展望台が造られています。
そこから、グランド越しに千々石湾と千々石の町並みが見えました。
前掲のとおりです。
23日は原城址の近くにある「旅館原城」に宿泊予約を入れていたのですが、旅館に行くと予約されていないとのこと。
おじいさんに予約の電話をしたのですが、というと、旅館の女将さんは納得したようで、部屋を用意してくれました。
少し呆けかけていたおじいさんから女将さんに予約のことが伝えられていなかったようです。ふうー、やれやれ。
24日
日野江城は、有馬氏初代の経澄(つねずみ)が建保年間(1213~19)に築城したと考えられています。
有馬城とも呼ばれていました。
戦国時代になり、キリシタン大名有馬氏は原城を築き、日野江城の改修も行っています。
慶長17年(1612)に、有馬氏は日向国延岡に転封、新たに領主となった松倉重政は島原城を築き、日野江城は廃城となりました。
近年の発掘調査で石垣や金箔瓦などが発見されています。
近くに「有馬のセミナリヨ跡」があります。
また、少し離れた道路わきに二重の模擬天守風の建物がありました。
「日野江の里天守閣タワー」とありますが、何のための建物だったのでしょうか。
松倉重政が元和4年(1618)に築城を開始した平城です。
別名は森岳(もりたけ)城です。
折れを幾重にも重ねる高石垣が築かれ、本丸には五重五階の層塔型独立式天守と3基の三重櫓、平櫓は33基もある大規模の城郭でした。
この築城のための課役や過酷な年貢の取り立て、キリシタンの弾圧などにより島原・天草の乱が発生。
松倉氏はその責により改易、斬首となりました。
昭和33年(1960)から西三重櫓や天守、巽三重櫓、丑寅三重櫓が順次再建されています。
*原城詳細
・アクセス:島原鉄道・島原駅下車から島鉄バスに乗り約60分、「原城跡入口」バス停下車、徒歩15分
・営業時間:24時間
・休業日:無休
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【参考文献】
公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プ
ラス 2018年5月7日第6刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連
盟)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月
20日第1版第1刷発行)、『別冊歴史読本 71 城郭研究最前線 ここまで見え
た城の実像』(新人物往来社 1996年10月25日発行)、中井均監修『超雑学
読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行)
「歴史と旅」臨時増刊号(第十九巻十一号(秋田書店 平成4年7月10日発
行)他
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