17回目になりました。
宇和島城の別称は、鶴島(つるしま)城、丸串(まるぐし)城、板島(いたじま)城。
2006年に「日本100名城」(第83番)に選定されています。
リアス式海岸の宇和島湾の最深部、標高80mの丘の上に、中世城郭・板島丸串(いたじままるぐし)城の跡地があります。
今はすっかり埋め立てられていますが、昔は丘の北と西は直接海に面し、東と南の麓を海水を引き込んだ堀が巡っていたと言われています。
埋め立てられるまでは、いわゆる海城でした。
では、歴史からいきましょう。
宇和島城は、文禄4年(1595)に宇和郡7万石に封じられた築城の名手・藤堂高虎(とうどう たかとら)が、慶長元年(1596)から6年の歳月を費やして天守を築きました。
その後、富田氏を経て伊達政宗の庶長子秀宗(ひでむね)が元和元年(1615)宇和郡10万石で入城し、伊達家が明治まで続きます。
2代目藩主の伊達宗利(だて むねとし)は、幕府の許しを得て、寛文(かんぶん)4年(1664)に城の大修築に着手。
しかし修理と言うよりは大改築で、石垣を追加構築したり天守の建て替えを行ったりして、同11年に完成しています。
現存の天守は、寛文(かんぶん)6年(1666)に再建されたものです。
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宇和島城へは1996年7月16日に登城しました。
宇和島城の天守は小規模で、本丸中央部にまったく防御の工夫がない、平和の訪れを象徴するような層塔型独立式の三重三階白漆喰総塗籠です。
美しい切込み接ぎの天守台にちょこんと建てられた天守には、あるべきはずの石落しや狭間は全くありません。
逆に一階平面が天守台上部より一回り小さくなっていて、犬走り(いぬばしり)があります。
これは防御上死角ができて良くないもので、大変珍しいもの。
まったく戦用ではない天守ですよね。
天守の入り口は、城の入り口と言うよりは御殿の玄関に近い形の、唐破風造りの玄関。
天守の一重目に比翼千鳥破風(ひよくちどりはふ)、二重目に千鳥破風、三重目に軒唐破風(のきからはふ)と連子窓(れんじまど)を組み合わせた、装飾性に富んだ優美な姿です。
そして至る所に「九曜」紋、「竹に雀」紋、「竪三引両」紋と伊達家の家紋・裏紋を配しています。
旧国宝であり、現在は重要文化財です。
本丸・二の丸は丘陵上に築かれ、山麓部には武家屋敷などが設けられていました。
山麓部は、図のように全体が五角形の形をしていて、三面は水堀に囲まれ、二面は海に面していました。
上り立ち門は、搦手門から天守に向かう途中にある唯一の現存する門です。
築造は寛文年間といわれており、薬医門形式で切妻造り本瓦葺きの屋根、丸瓦には伊達家の家紋である九曜の印がついています。
2代目宗利は、天守以外にも居館と藩庁機能を持つ御浜御殿(おはまごてん)を築造しました。
後になって御殿の一角に池水回遊式(ちすいかいゆうしき)庭園が造営され、家祖伊達政宗の詩にちなんで天赦園(てんしゃえん)と名付けられます。
ここも現在見学できますよ。
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【初めての城巡りの旅】(1996年7月13日~18日)
宇和島城に登城した1996年7月は、勤続20年で与えられた特別休暇で、徳島市から瀬戸内周りで四国を一周して城巡りを楽しみました。
13日徳島城址を探訪。
14日は香川県の丸亀城と、昭和61年市制施行30周年記念事業として市民からの浄財で建造された愛媛県の三重四階川之江城模擬天守に登城しました。
15日は大洲城址です。
本丸に小天守を兼ねた高欄櫓、台所櫓、他の離れたところに隅櫓と肱川(ひじがわ)のほとりに苧綿(おわた)櫓が遺構として残っていました。
16日に、宇和島城を探訪。
17日は高知県に入り、四重五階の中村城模擬天守(四万十市立郷土資料館)を見学。
18日は徳島県の日和佐城模擬天守(日和佐勤労者野外活動施設)と6日間に7城を探訪しました。
楽しい初めての城巡りの旅でした。
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*宇和島城詳細
アクセス:宇和島駅からバスで5分・徒歩で25分
営業時間:11月から2月6:00~17:00/3月から10月9:00~16:00
休業日:年中無休
【参考文献】
平井 聖監修『7 四国 黒潮寄せる南海の城』(毎日新聞社 平成9年1月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる 日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行),
『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)他
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