日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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全国の武将像とお城:三英傑・築城名人・城主たち

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2026年が始まりました。

新年 あけまして おめでとうございます

今年もどうかよろしくお願いいたします。

ブログをはじめてはや6年目。

早いものです。

今回は新年の特別コラムとして、武将の像とお城について書いていこうと思います。

城には築城者の像や、城ゆかりの像が建立されていることがありますよね。

見られたかたも多いと思います。

2026年の初めは、そんな武将の像が建立されている城のいくつかを紹介いたします。

それぞれの詳しい城の紹介はここでは省略していますので、このブログのそれぞれの紹介の回をご覧ください(お城の記事の数字にリンクを貼っています)。

ちょっと長くなりますが、どうぞ最後までお付き合いくださいますと嬉しいです。

*武将の像とお城:三英傑

それではまずは、三英傑といわれている織田信長豊臣秀吉徳川家康からはじめましょう。

 

織田信長と清州城

清州城の近くにある清洲公園に建てられている若き織田信長像(著者撮影)

出陣姿の織田信長像ですが、桶狭間の方向を見据えているそうです。

左隣には斎藤道三の娘である正室濃姫の像が建てられていますよ。

岐阜駅前には金ぴかの信長像がありますし、安土駅前にも信長像が建立されていますね。

清州城のなかにも、小さいながらも金ぴかの、たぶん「敦盛」を舞っている姿と思われる信長像が展示されていました。

岐阜駅前の金ぴかの信長像    by:photo-ac

愛知県にある清州城は、平成元年(1989)に、五条川の対岸にある清洲文化公園に建造された望楼型の模擬天守です。

清州城のパンフレットの表記では「清州城天守閣」となっていますが、正式には「天守閣」ではなく、「天守」といいます。

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参照:天守の呼び方や形式、型は、「城郭用語1:天守とは」「城郭用語2:天守の形式と門」で解説しています。

清州城天守(筆者撮影)

 

豊臣秀吉大阪城

大阪城内にある豊国神社と豊臣秀吉像   by:photo-ac

大阪城内にある豊国神社の前の豊臣秀吉像は、なかなかりりしい姿ですね。

墨俣城当ブログ記事第122回目)の入口には、木下藤吉郎秀吉座像があります。

長浜城当ブログ記事第61回目)の近くには、秀吉と石田光成の出会い像がありますね。

木下藤吉郎秀吉座像   by:photo-ac

秀吉が建立した大坂城は、元和元年(1615)の大阪の陣で焼失しました。

徳川家康は、豊臣大坂城の上に盛土をし、豊臣大坂城を上回る大規模な大坂城を天下普請で築きます。

地中に埋もれている豊臣大坂城の石垣が、現在は展示されていて見学できますよ。(気ままにぶらっと城跡へ㉞「豊臣石垣館」

しかし、寛文5年(1665)にその天守も焼失。

現在の天守は、昭和6年(1931)に再建された3代目の望楼型独立式復興天守です。

豊臣天守は黒く塗られた天守でしたが、徳川大阪城天守台の上に再建された天守は、四重目までは白漆喰総塗籠の姿(徳川系の白の城 参照:「かるーいお城の雑学(その1 )黒い城と白い城」)で、五重目だけが豊臣大坂城天守の意匠になっている、なんとも言えない姿です。

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大阪城   by:photo-ac

 

徳川家康浜松城

浜松城に建立されている徳川家康像  by:photo-ac

岡崎城当ブログ記事第37回目)には、幼い竹千代と家康が並んで座っている像と家康の「しかみ像」があり、駿府城第57回)には、「鷹狩り姿の家康像」があります。

駿府城の家康像    by:photo-ac

岡崎城内にある家康のしかみ像  by:photo-ac

家康は、元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦い武田信玄の大軍に無理な戦いをして、多くの家臣を失いました。

「しかみ像」は、そのときの自責の念を忘れないために書かせた肖像画を元に造られた像です。

大変珍しい像ですよね。

浜松城は、歴代譜代大名が城主となり、老中や大坂城代京都所司代など幕府の要職に就く者が多く、「神君ゆかりの出世城」として有名です。

現在の天守は、昭和33年(1958)に再建された望楼型独立式復元天守です。

浜松城     by:photo-ac

 

*武将の像とお城:築城家

では続いて、武将や城主としてだけでなく、築城家としても有名だった藤堂高虎加藤清正の像とお城をみていきましょう。

 

藤堂高虎今治城

今治城にある藤堂高虎像     by:photo-ac

愛媛県にある今治城の築城者である藤堂高虎は、名築城家(お城の雑学・築城の名人1:藤堂高虎)と呼ばれています。

生涯に主君を何度も変えたので、あまり評判が良くなかったのですが、現在は評価されている武将です。

晩年は徳川家康に信頼され、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用され、家康の臨終の時には傍にいたと伝わっています。

宇和島城第17回)、今治城、津城(気ままにぶらっと城跡へ⑮)、伊賀上野城第87回)をはじめ、多くの城の築城、修築に関わっており、その数は15とも23とも言われています。

藤堂高虎像は、三重県の津城にもありますよ。

津城にある藤堂高虎像  by:photo-ac

今治城は、高虎によって築城された三大水城(第60回高松城第66回中津城)のひとつで、日本で初めて層塔型天守として建造されました。

その後、天守は、豊臣秀頼がいる大坂城との戦いに備えるために大改修された丹波亀山城気ままにぶらっと城跡へ㉖)に移設されたと伝わっています。

今治城は、昭和55年(1980)に、市政60周年を記念して天守が再建されたのですが、元の層塔型の天守とは全く違う望楼型の観光用の天守として再建され、模擬天守と言わざるを得ない姿となっていることはまことに残念です。

今治城模擬天守   by:photo-ac

 

加藤清正と熊本城

熊本城の加藤清正像   by:photo-ac

加藤清正は、藤堂高虎黒田官兵衛とともに有名な名築城家(お城の雑学・築城の名人2:加藤清正)です。

名古屋城第27回)には、天下普請で名古屋城天守台づくりのとき、石の上から号令をかける「加藤清正公石曳きの像」があります。

加藤清正公石曳きの像」(筆者撮影)

熊本城は、三大名城(姫路城、大坂城)のひとつといわれる大城郭で難攻不落の城です。

明治10年(1877)西南戦争の時、司令官谷干城(たに たてき)が4,000人で熊本城に籠城していました。

兵も武器も圧倒的に有利な西郷隆盛軍でしたが、難攻不落の堅城熊本城を、どうしても落城させられませんでした。

西郷隆盛は、「清正公と戦(いくさ)しよるごたる」とつぶやき、加藤清正が築城した堅城・熊本城の攻城をあきらめ撤退したと伝わっています。

現在の天守は、昭和35年(1960)に再建されたもので、小天守をもつ望楼型連結式の復元天守です。

地震前の熊本城復元天守  by:photo-ac

 

*武将の像とお城:城主や初代藩主たち

ここからは初代藩主や城主の像と彼らのゆかりのお城を紹介します。

 

山内一豊高知城

追手門の手前にある山内一豊公之像(ブログ管理者関目撮影)

山内一豊は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦い以前は豊臣秀吉の家臣で、秀吉によって、関東の徳川家康の抑えとして掛川城主とされていた武将です。

山内一豊は、関ケ原に向かう家康に掛川城第16回)を提供し、家康側につきました。

関ケ原の戦功によって、翌年、家康から掛川6万石から土佐の国主として20万石を与えられ、高知に移封してきます。

当初は桂浜の近くの浦戸城に入りましたが、領国経営のため新たに高知城を築城しました。

武将としての山内一豊の力を恐れた徳川家康が、山内一豊に大幅に加増し、江戸からは遠く離れた、かつては流刑の地であった土佐に体よく追いやったと、筆者は考えています。

高知城には、杉の段に「内助の功」で誉れ高い千代と馬の像があります。

また、高知城内には「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残した明治の政治家板垣退助銅像もありますよ。

山内一豊の妻千代と馬の像(ブログ管理者関目撮影)

郡上八幡城にある山内一豊と妻千代の像    by:photo-ac

岐阜県郡上八幡城(第58回)には、若き山内一豊と千代の2人の像が建立されています。

これは千代が、郡上八幡城初代城主の遠藤盛数の長女として生まれたという説があるためです。

高知城は、天守や本丸御殿をはじめ、多門櫓など本丸のすべての建造物が遺構として江戸時代のまま残っている日本で唯一の城郭です。

そして高知城天守は、望楼型独立式現存天守です。

これだけで、国宝の価値は充分あると思いませんか。

追手門の前には「国宝 高知城」の石碑が立っています。

これは、高知城が旧国宝指定の天守だったからですね。

現在は国宝の指定はされていません。

その点が、高知出身の筆者としては残念な思いです。

高知城天守と懐徳館と呼ばれる本丸御殿(ブログ管理者関目撮影)

 

本多忠勝岡崎城

岡崎城にある藩祖本多忠勝像   by:photo-ac

本多忠勝は、さまざまな武勲をあげた徳川四天王のひとりといわれる武将です。

岡崎城には、藩祖としての本多忠勝像が建立されています。

そして桑名城第145回)には、岡崎城にある藩祖本多忠勝像と少し違った姿の像があります。

桑名城にある本多忠勝像   by:photo-ac

岡崎城は、徳川家康が誕生した城として有名ですね。

江戸時代には特別に神聖な城として大切にされ、格式の高い譜代大名が城主となっています。

「神君・徳川家康公出生の城」としてよく知られています。

現在の岡崎城は、昭和34年(1959)に再建された付櫓と井戸櫓が付属する望楼型複合式天守です。

ただ、最上階の高欄は、江戸時代の天守にはなかったものですよ。

岡崎城復興天守    by:photo-ac

 

森忠政津山城

森忠政公像(筆者撮影)

森忠政は、天正10年(1582)に本能寺の変織田信長とともに亡くなった、森蘭丸の弟です。

美濃国金山城7万石の城主でしたが、秀吉の死後徳川家康に近づき、信州川中島海津城松代城 第76回)13万7500石大名から、関ケ原の戦功により18万石で美作国津山に加増転封となりました。

美作津山藩の初代藩主です。

津山城は、「一二三段(ひふみだん)」と呼ばれる城郭史上最高の石垣が築かれていることで有名な城址です。

平成17年に津山城築城400年を記念して、備中櫓が再建されました。

津山城さくら名所100選に選ばれている城ですので、是非桜の季節に探訪してください。

津山城備中櫓    by:photo-ac

 

④戸田氏鉄と大垣城

戸田氏鉄公騎馬像    (筆者撮影)

戸田氏鉄(うじかね)は、武勇の誉れ高い武将で、戸田家は三河以来の徳川家の家臣でした。

戸田氏鉄は、元和3年(1617)に江戸幕府の命令で徳川大坂城の守りのためと外様大名の多い西国を抑えるために尼崎城築城を命じられ、巨大な尼崎城を築城します。

寛永12年(1635)に、美濃(みの)大垣へ移封。

大垣は、陸・川・海の要衝で、「美濃を制するものは天下を制する」と言われる軍事上の最重要地点です。

そこに徳川幕府は、信頼する武将戸田氏鉄を配したのです。

氏鉄は、大垣城を近世的な城郭へと大幅に修築しました。

大垣城は、戦前は国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失。

現在の天守は、昭和34年(1959)に建造された多門櫓二つをもつ層塔型複合式復元天守です。

大垣城復元天守(筆者撮影)

 

最上義光と山形城

最上義光公像   by:photo-ac

最上義光(よしあき)は、最上家11代当主で山形藩初代藩主です。

機略にとんだ戦国武将で、越後の上杉謙信や奥州支配を目指す伊達政宗と競いながら、秀吉、家康の信を得ていきます。

関ケ原の戦いでは、上杉景勝との戦いでの軍功によって57万石の大大名となります。

俗に「最上100万石」といわれるまでにのし上がりますが、義光の孫の代にお家騒動により改易となりました。

山形城は、文禄年間(1592~95)に義光によって大改修・拡張された東北きっての大城郭です。

その後、最上家の後に入封した鳥居忠政(ただまさ)が再び大改修して現在の形に整えました。

平成3年(1991)に、江戸時代の石垣を築き直し、二の丸東大手門の桝形を復元しました。

正面に高麗門、左側に櫓門、右側に多門櫓を木造で再建した堂々たる構えの内桝形門ですね。

再建された山形城二の丸東大手門  by:photo-ac

 

伊達政宗仙台城

伊達政宗公   by:photo-ac

伊達政宗については、説明の必要がないでしょう。

独眼竜政宗としてドラマなどで有名な戦国武将で、東北の覇者です。

仙台城本丸にあるこの伊達政宗騎馬像は、昭和37年(1962)に再建されたものです。

もともとの伊達政宗騎馬像は、政宗没後300年を記念して昭和10年に建立されましたが、昭和18年の金属類回収令で撤去。

昭和29年にはコンクリート製の伊達政宗立像が建立されましたが、現在は伊達政宗の元の居城だった岩出山城に移設されています。

また、仙台城には、「荒城の月」の作詞者・土井晩翠(つちい ばんすい)の銅像がありますよ。

作曲者の滝廉太郎銅像は、大分県の岡城(第13回)にあります。

広瀬川の約70mの断崖の上に本丸が築かれた仙台城は、龍ノ口渓谷と原始林の天険を巧みに利用した堅城です。

徳川幕府に遠慮したのか天守は建造されませんでしたが、伊達政宗の本拠地にふさわしい壮大な城郭で、東北一の豪華さを誇る城だったようです。

大手には、佐賀県名護屋城第55回)から移築した豪華な桃山様式の旧国宝指定の大手門があったのですが、第二次世界大戦の空襲で残念ながら焼失。

大手門に接続していた脇櫓が、昭和40年に民間の寄付によって復元されています。

復元された大手門脇櫓   by:photo-ac

 

*その他の武将像とお城&藤堂高虎の遺訓

全国のお城には、以上紹介した他に、

があります。

まだまだあるかもしれません。

お城を探訪した際には、建物や石垣だけでなく、建立されている銅像なども楽し
んでください。
また、築城者関連の言葉を刻んだ石碑や碑も設置されていることもあります。

次の写真は、筆者の好きな藤堂高虎の遺訓です。

この遺訓を津城で初めて知りました。

津城にある藤堂高虎遺訓の碑(筆者撮影)

高山公(藤堂高虎)遺訓

可為士者常之覚悟之事

寝屋を出るより/其日を死番と可心得/かように覚悟極るゆへに/物に動する事なし/是可為本意

高虎の覚悟のほどがわかりますね。