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27回目は、愛知県の名古屋城です!
別名は、楊柳城、鶴が城、金城、など。
2006年「日本100名城」(第44番)に選定されています。
では、歴史から見ていきましょう。
名古屋城が築かれた所は元々「那古野(なごや)」と呼ばれており、今川氏の支城がありました。
しかし、後に織田信長の父・信秀(のぶひで)に滅ぼされ、那古野城は織田氏の城となります。
信長はその城中で生まれ、幼少期に父・信秀よりその城を譲られました。
名古屋城二の丸庭園入口に「那古屋古城之跡」の石碑があります。
その地に慶長15年(1610)、徳川家康が加藤清正、黒田長政、細川忠興、池田輝政、福島正則、前田利常など、そうそうたる秀吉恩顧の外様大名らに大々的な天下普請を命じて築城しました。
名古屋城の誕生ですね。
このとき、地名も名古屋に変えています。
狙いは以下の3つ。
広大な縄張りに天守、小天守を中心に多くの櫓などを建て、戦国時代最後にして最大級の城郭・軍事要塞が築かれました。
このとき、天守台の石垣は加藤清正が助役普請で築き、作事(建築)は幕府直轄で名築城家として有名な小堀遠州(こぼり えんしゅう)が作事奉行として担当しています。
初代城主は家康の九男の義直(よしなお)です。
江戸時代を通じ、城主は御三家筆頭・尾張徳川家17代が続きます。
慶長18年(1613)に城下の町割りが終了して武士や町人の住居が定まると、清州から家中の武士や町人、神社仏閣はもちろん町の名前や橋の名前までが名古屋に引っ越してきました。
これが、有名な「清州越(きよすごし)」。
移住した住民は、基本的に前と同じ町名のところに住んだようですね。
五重の天守には金の鯱が載って評判を呼び、「尾張名古屋は城でもつ」と謳わられるまでの大天守でした。
明治の廃城令により取り壊される運命でしたが、ドイツ公使の進言を受けた陸軍卿の山縣有朋(やまがた ありとも)は破却を中止、保存されることになります。
昭和5年(1930)には、城郭では天守とともに本丸御殿も国宝第1号に指定。
建築・絵画・美術工芸史にその名を刻んだものです。
しかし、残念なことに昭和20年の空襲により天守、小天守、御殿ともことごとく焼失してしまいました。
天守は昭和34年(1959)再建され、本丸御殿は平成30年(2018)に復元されています。
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本丸南と東には櫓門と高麗門で固められた桝形が設けられ、その外側に大きな馬出が造られていました。
本丸の全周は多聞櫓で囲まれた堅固極まりない構えです。
本丸を中心に二の丸・御深井(おふけ)丸・西の丸を配置。
さらに外郭に三の丸を置いた、梯郭式の縄張りの平城を代表する大城郭です。
小天守から天守の入口への両側を土塀で囲った廊下橋(橋台)で結ばれている天守は、文献によっては連結式天守という表記もありますが、層塔型の独立式天守と言えるかと思います。
五重七階地下一階の白漆喰総塗籠めの、いわゆる「白い城」です。
二重目には比翼千鳥破風と比翼軒唐破風(大変珍しい!!)に挟まれた千鳥破風があり、出窓風に造られています。
三重目には比翼千鳥破風と大きな千鳥破風、四重目には三重目の比翼千鳥破風の上の真中に小さな千鳥破風と、三重目の大きな千鳥破風の先に軒唐破風。
そして最上重には金鯱が誇らしげに輝いています。
大変力強く、さらに装飾性に富んだ華麗な天守ですよね。
そして派手好みで知られる秀吉の大阪城にも、5年前に築城した江戸城にもない巨大な金鯱、それを家康が初めて名古屋城に挙げました。
家康の名古屋城築城に賭ける心意気を示すものでしょう。
それだけではありません。
高さにおいては江戸城天守と大坂城天守に及ばないものの(とは言っても高層ビルでいえば18階の高さ)、延床面積においては両天守よりはるかに広くなっており(姫路城天守の2倍以上もある)、まさに史上最大級の天守と言えるでしょう。
とにかくデカい城だったわけです。
出窓には隠された石落としがあり、外からは見えないように塗り込められた鉄砲狭間も隠狭間として設けられています。
また、小天守の地下一階の入口と天守の地下の入口は総鉄張りの扉で、中は桝形になっており、侵入した敵を攻撃可能。
総銅瓦葺で、天守の備えは厳重なものです。
この橋台を通って本丸に向かう敵は、正面から狙い撃ちにされます。
橋台の部分を普通ならば多聞櫓にするのですが、そうしなかったのは侵入してくる敵兵を二重、三重目から狙い撃ちするためだったのでしょうか。
入母屋破風のすぐ下に出窓の唐破風を付けた面と、入母屋破風の出窓のある未申隅櫓と奥に天守を望むこの景観は、名古屋城絶景の一つです。
西北隅櫓(清州櫓)は現存する三重三階の櫓で、高知城、丸岡城、宇和島天守を凌ぐ大きさの櫓ですね。
清州城を移築したと伝承されることから、清州櫓とも呼ばれています。
外堀に面した二面に石落としのある出窓の入母屋破風が、一重目の軒を分断しています。
名古屋城には、本丸の西南・辰巳・御深井丸の西北隅(清州)櫓の3つの櫓が現存していますが、いずれも重要文化財です。
本丸御殿は、尾張藩主の住居かつ藩の政庁として慶長20年(161)に完成しました。
御殿の内部は、江戸時代の先端技術を注いだ近世城郭御殿の最高傑作と讃えられるほどでした。
狩野探幽を中心とした絵師たちが見事な襖絵を描いた障壁画や飾金具などで、絢爛豪華に飾られていたそうです。
空襲により焼失した本丸御殿は、幸なことに江戸時代の図面や記録、実測図、古写真などが残されていました。
そのため、第一級の史料をもとに忠実に復元。
平成30年(2018)には江戸幕府将軍家光の宿泊のために建造されたもっとも格調が高い「上洛殿」や「湯殿書院」が完成し、その優美な姿が公開されています。
名古屋城のもう一つの御殿として、元和6年(1621)に二の丸御殿が完成。
藩主の義直は本丸から二の丸へ移居して、二の丸御殿が藩主の公邸となります。
本丸御殿は、将軍が京都に向かう時の御成りの将軍専用御殿となりました。
秀忠、家光の上洛のさいに本丸御殿は宿舎として使われていますよ。
しかし、四代将軍以後は、江戸城内で将軍宣下が行われるようになって将軍の上洛がなくなり、本丸御殿は使われることなく明治を迎えます。
というわけで、本丸御殿は250年間も使われず空しく将軍の御成りを待つ、日本一豪華な空き家だったわけですね。もったいなーい!
助役普請の加藤清正は、朝鮮在陣中に修得した独特の技術を他者に見られないように、工事現場を幕で囲って工事をしたそうです。
さらに清正は美しく着飾った小姓とともに大石の上にのり、綱引きの人々を囃し立て、見物人には酒などを振舞ったと言われています。
清正の陣羽織・日の丸扇での陣頭指揮は有名で、その姿の像が城内にあります。
清正担当の天守台の石垣は20mもの高さに積み上げた高石垣。
熊本城の高石垣同様、反りのある立派な高石垣です。
今も天守台石垣の北東部に残る石垣に「加藤肥後守……」と刻まれた石が残っています。
天守の屋根には、名古屋城のシンボルである金鯱(金の鯱)が載っています。天守の北が雄、南が雌です。
身部は木組みで、その上に寄木を貼り、さらに鉛板、銅板を重ねて止め、その銅板の上に薄い金の延べ板をかぶせ張りにしています。
慶長17年(1612)の天守が完成したときに掲げられた金鯱は、慶長小判の金を使って作られました。
しかしこの金鯱は度々修理が行われ、そのたびに金の純度を落とし、浮いた分を藩費として使ったようです。
それほど尾張徳川家の内情は窮迫していたと言えます。
皆さん資金繰りが大変だったんですねー。
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名古屋城には2003年10月25日に登城しました。
翌日は、三重県の神戸(かんべ)城址と天守台などが残る田丸城址を探訪して帰阪しました。
神戸城址は、神戸(かんべ)家の養子となった織田信長の三男・信孝が五重の天守を築いたと言われています。
最近は割とお城ごとに載せてますので、名古屋城も公式ホームページをのせておきます!↓↓
歴史や見所、美しい写真などが多いので、チェックしてみてくださいね。
*名古屋城詳細
・住所:愛知県名古屋市中区本丸1-1
・アクセス:地下鉄市役所駅から徒歩で5分/名古屋高速都心環状線「丸の内」から車で5分(出口から北へ)
・営業時間:9:00~16:30 入場は16:00まで
・休業日:12月29日~1月1日 カウントダウンイベントにより、31日は開園時間変更の場合あり
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【参考文献】
平井 聖監修『城 4 東海 天下人への夢馳せる群雄の城』(毎日新聞社 平成8年12月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、千田嘉博講師『体感・実感! にっぽんの名城』(NHKテレビテキスト 2011年1月―3月)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる 日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行)、「歴史と旅」平成3年7月号及び2000年10月号(秋田書店)他
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