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お城にざっくり関係ある雑学を語ります。
築城者紹介の3回目ですね。
築城の名人としては、5人が有名です。
- 宇和島城(第17回)、今治城(第53回)、伊賀上野城(第87回)などを築いた藤堂高虎
- 松山城(第26回)を築き、会津若松城(第15回)を大改修した加藤嘉明
- 松江城(第5回)を築いた堀尾吉晴
- 中津城 (第66回)、福岡城(第67回)を築いた黒田如水
- 熊本城(第25回)を築いた加藤清正 ※()は当ブログお城大好き雑記の番号
前回の繰り返しになりますが、いずれも豊臣秀吉の家臣から大名になった人たちです。
徳川幕府は、彼らに名城・堅城を築かせ、結局は城を取り上げ、その後に親藩や譜代の大名を転封することがままありました。
また、家康はその外様大名達を使って、江戸城(第8回)、名古屋城(第27回)、再築大坂城(第4回)、彦根城(第19回)、篠山城(第79回)など天下普請といわれる城を築城しています。
今回はその一人で中津城、福岡城を築いた黒田孝高(よしたか 通称官兵衛、後の如水)を取り上げます。
戦国時代から江戸初期にかけての武将であり、筑前国福岡藩の初代藩主(藩祖)です。
「天才軍師」として、現代でも有名ですよね。
彼の金言:大将は威厳がなくてはならないが、威張って下をおさえ込むのではだめだ
官兵衛は軍事的才能に非常に優れた人物でした。
秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉など幅広い活躍をします。
竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称されています。
あまり知られていないかも知りませんが、黒田官兵衛は洗礼名シメオンというキリシタン大名でもありつづけ、生涯側室を持つこともありませんでした。
当時としては珍しいことです。
黒田官兵衛の先祖は、近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の出身とされていますが、定かではありません。
官兵衛の祖父の時代に播磨国に移り御着(ごちゃく)城城主小寺氏に仕えます。
小寺氏は黒田氏を高く評価し、支城の姫路城の城代に任じています。
官兵衛は天文15年(1546)に黒田職隆の嫡男として姫路で生まれ、永禄10年(1567)頃に父から家督と家老職を継ぎ、姫路城代となります。
信長の才能を高く評価していた官兵衛は、羽柴秀吉の取次で岐阜城で信長に謁見。
信長から名刀「圧切(へしきり)長谷部」を授かっています。
秀吉が中国攻めのときには居城の姫路城本丸を秀吉に提供し、自分は二の丸に住んで秀吉の参謀として活躍するようになります。
天正6年(1578)、織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に謀反し、有岡城(伊丹城)に籠城します。
そのとき官兵衛が村重を翻意させるために乗り込みますが、翻意させることが出来ず逆に捕らえられ土牢に幽閉されてしまいました。
1年後 有岡城は開城し官兵衛は救出されます。
しかし帰ってこない官兵衛を信長は寝返ったと思い、人質に取っていた嫡子・松寿丸(後の長政)を殺害するように竹中半兵衛に命じます。
ところが機転を利かせた半兵衛は、密かに松寿丸を匿まっていました。
その話は有名ですね。
2014年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」岡田准一主演を懐かしく思いだします。
天正8年(1580)秀吉は三木城を落とし、官兵衛の主君である小寺氏は鞆の浦に逃れました。
ここで大名としての小寺氏は滅び、官兵衛は秀吉の家臣となります。
そのとき、姫路城を官兵衛に返そうとする秀吉に、官兵衛は「姫路城は播州統治の適地である」と進言して謝絶。
秀吉は官兵衛に姫路城普請を命じ、三重の天守を築城します。
官兵衛は1万石を与えられました。
その後、竹中半兵衛が病没すると、官兵衛は秀吉の軍師として従軍します。
備中高松城水攻めのとき、官兵衛はさまざまな策を実施して貢献。
また本能寺の変では、秀吉に毛利輝元と和睦をして明智光秀を打つように進言し、「中国大返し」を成功させたという逸話も残っています。
その後は秀吉軍の一員として、さまざまな戦いで軍功を立てました。
天正13年(1585)の四国攻めでは、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家軍の軍監として加わり、先鋒として諸城を陥落させていきます。
この頃官兵衛は高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信、「シメオン」の洗礼名を与えられます。
秀吉の九州平定後の天正15年(1587)には豊前国の中の6郡およそ17万石を与えられ、周防灘に向かって悠々と流れる山国川河口に中津城の築城を開始、同16年に完成させました。
翌年に官兵衛は家督を長政に譲り、中津城は息子・長政に任せ、自分は伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点とし秀吉の側近として仕えます。
秀吉も官兵衛の築城技術の高さを評価していて、朝鮮出兵の拠点名護屋城の総奉行を命じていますね。
官兵衛の築城術をさらに引き上げたのは、文禄元年(1592)の朝鮮出兵です。
長政とともに出陣し、釜山の北に倭城(朝鮮における日本の城)の機張倭城(きじゃんわじょう)さらに梁山倭城(りょんさんわじょう)を築城。
両城ともに総石垣の中心部を築き、それを多重の石垣や土塁、堀によって守る構造で、これは四方を敵に囲まれた他国での過酷な籠城戦を耐え抜く工夫だったようです。
官兵衛は朝鮮出兵での倭城築城に関わることによって石垣構築技術を身につけました。
途中秀吉を戦略面で説得するため名護屋城へ帰国しますが、それを軍令に従わず戦線を離脱したと秀吉に見なされます。
官兵衛は剃髪して「如水軒円清」と号し、死罪を覚悟、長政らに遺書を残しますが、秀吉に赦免されます。
秀吉の死後は豊臣家臣内の争いのなかで、官兵衛は蜂須賀家政や藤堂高虎らとともに家康方へ。
関ヶ原の戦いでは、長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて関ヶ原本戦で武功を挙げました。
如水本人は中津城の留守居役を勤める密約を家康と結んで、九州の西軍と闘います。
関ヶ原の戦い後、家康はまず長政に勲功として筑前国名島(福岡)52万石への大幅加増移封をした後、井伊直政や藤堂高虎の勧めもあり、如水に勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示しました。
しかし如水はこれを辞退します。
如水が朝鮮で身につけた石垣構築の技術を駆使して築き上げたのが、福岡城です。
北は博多湾、西は草が江の入り江に続く丘陵地を中心とし、東に肥前濠などを掘って那珂川と結ぶなどして築城しました。
福岡城には天守台はありますが、如水の遺言により天守は建てられなかったと伝えられています。
しかし、私は天守を建造したが徳川家にゆえなく難癖をつけられないようにするため、自ら破却したのではないかと思っています。
福岡城は、大小47もの櫓を備えた壮大な城郭でした。
加藤清正は「自分の城は3、4日で落ちるが、福岡城は30日から40日は落ちない」と賞賛したと言われています。
如水は関ヶ原の戦い後、中央の政治に関与することなく隠居生活を送ります。
福岡城の御鷹屋敷や大宰府天満宮内に構えた草庵などで過ごし、上方と福岡を行き来しました。
亡くなる半年前は、若き日に有岡城から助けられて療養した有馬温泉で療養滞在しています。
慶長9年(1604)に京都伏見藩邸で死去。
死の間際、如水は自分の「神の子羊」の祈祷文およびロザリオを持ってこさせ、それを自分の胸の上に置き遺言をのこしました。
自分の死骸を博多の神父の所へ運ぶこと、領内において神父たちに好意を寄せること、イエズス会に2,000タエス(約320石)を与え、博多に教会を建てることなどです。
また家臣の殉死を禁止しております。
珍しいですよね、この時代には。
如水の葬儀は、ペロ・ラモン神父とマトス神父により執り行われましたが、息子・長政は仏式の葬儀も行っています。
2年後如水の追悼記念聖堂が完成、如水の追悼ミサが執り行われ、長政や重臣も参列したようです。
長政は後に京都の臨済宗大徳寺に父・如水を弔うために塔頭・龍光院を建立し、法要を行っています。
同院は大阪天満の如水屋敷にあった書院や茶室などを移築したものと言われており、これが国宝茶席三名席の一つの「密庵(みったん)」です。
黒田官兵衛は、水陸の利便を重視した築城を得意としていました。
居住した中津城や福岡城の他、彼が指導して築いた城である高松城、名護屋城、広島城などはすべてこの方針に基づいて築城しています。
また秀吉政権下での秀吉の姫路城、大坂城、石垣山城などの主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っております。
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【参考文献】
平井 聖監修『城 8 九州・沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、中井均『超雑学 読んだら話したくなる 日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行)他