日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

かるーいお城の雑学(その7)石工集団・穴太衆

大津市坂本にある穴太衆の石垣   by:photo-ac

日本全国にあるお城。

見ていく中で「ん?」と感じたことを書いていく「かるーいお城の雑学」その7です!

今回は、城郭普請で重要な石垣造りを担当する有名な穴太衆(あのうしゅう)について書いてみます。

今までの記事1~6については最下部にリンクを載せますので、そちらも読んでいただければ嬉しいです。

 

********************************

 

穴太(あのう)」は地名です。

近江国穴太は現在の滋賀県大津市坂本のことで、比叡山の東の麓、琵琶湖の西岸にあります。

比叡山延暦寺日吉神社門前町で、今も穴太衆が築いた石垣がいたるところに残っていますよ。

落ち着いた佇まいの門前町です。

穴太衆は、その起源は朝鮮半島からの渡来人といわれています。

横穴式古墳の石室や、石棺などの製作を専門とする人びとだったようです。

時代が下って、比叡山や坂本の寺社の石段や石垣、五輪塔、石仏などの製作を専門にするようになっていきます。

言わば、寺社に所属する石工の専門職集団でした。

織田信長比叡山焼き討ちを行ったさいに石垣なども破壊させますが、容易に崩れない石垣だったため、穴太衆の存在を知ったそうです。

穴太衆は、安土城築城以前にも、安土の向かいの山上に築かれた観音寺城で石垣を築いています。

観音寺城池田丸石垣     by:photo-ac

穴太衆の石垣の築き方は野面積みの一種。

穴太積みとも呼ばれています。

自然石を加工しないでそのまま積み上げるやり方で、高度な技術が要求されます。

穴太積みの外観上の特色は以下のようなことです。

  • 積石の縦線、横線が一定でなく、いわゆる「乱積み」の形になっている
  • 石の大きな面が外に出るように工夫しながら、スキのないように組み合わせてゆく
  • 石を削ることをせず、そのままで面を合わせて積む

 

浜松城本丸の野面積みの石垣   by:photo-ac

信長は穴太衆の石垣を築く技術力の高さを評価して、天正4年(1576)の安土城の築城にさいし石垣を築かせます。

この安土城での仕事で、穴太衆は天下に知られるようになっていきました。

安土城の野面積みの高石垣は、古いものですがなかなか見ごたえがありますよ。

安土城の石垣   by:photo-ac

穴太衆は城郭の石垣造りの専門集団として、安土城の築城後も豊臣秀吉や多くの大名に雇われます。

それまでの城にはあまり石垣は築かれてはいませんでした。

しかし安土城や秀吉の大坂城築城などに関わった織田・豊臣系大名の築城に当たり、穴太衆は城の石垣造りの中心を担っています。

特に西日本では石垣のある城郭が中心になっていきました。

その結果、穴太衆は織豊系の城郭の石垣を多く築き、彼らの技術は各地に伝えられたのです。

また穴太衆は、各地の築城の現場で石垣の技術者養成の役割をも果たしました。

その後、石垣工事専門職の者は「穴太役(あのうやく)」と呼ばれるようになります。

何段にも積み重ねられた津山城の高石垣石垣   by:photo-ac

穴太衆が石垣造りに加わった城は、記録に残っているだけでもかなり多いですよ。

以下をご覧ください。

江戸城

駿府城

名古屋城

・二条城

大坂城

伊賀上野城

篠山城

広島城

津山城

高知城

・熊本城

金沢城

彦根城

などですが、まだまだ記録に残っていないだけで多くの城の石垣を築いたと思われます。

文禄元年(1592)に始まる伏見城築城には、太閤秀吉に仕える「駿河」、「三河」と関白秀次に仕える「出雲」という穴太が参加していることが『駒井日記』という文献に記されているとのことです。

慶長8年(1603)以降は、9人の穴太頭が置かれ、その下に約300人の穴太衆がいたそうですよ。

やがて穴太頭は、丹後、駿河三河、出雲の四家になりました。

『史料通信叢書』収録の「穴太頭之事」によれば、駿河丹波は戸波姓、出雲は堀金姓、三河は高村姓であり、知行はいずれも100石で家康に召し出されたといいます。

穴太頭は穴太衆を統率し、江戸幕府の機構のもとに組織され統括されていました。

世襲制で、100石から300石を貰っていました。

やがて、次男、三男が各大名家に雇われ、作事奉行や石奉行の配下に常置されていきます。

また、どこの大名にも属さない師匠格の穴太頭が、幹部級の石垣師の育成にあたり、石垣築きの伝授など養成所のようになっていました。

しかし、江戸幕府が始って平和な時代となってからは築城ブームが終わり、元和元年(1615)の一国一城令武家諸法度などにより、新たな築城や石垣の修理が著しく制限されるようになると、その役割を次第に終えていきます。

穴太衆は、その出先の各藩に土着することを余儀なくされていくのです。

 盛岡城石垣   by:photo-ac

しかし、なかには盛岡藩のように高禄で穴太衆を召し抱える大名もいました。

また、土佐藩山内一豊は、慶長6年(1601)から高知城の築城を始めますが、そのさいに穴太衆の北川豊後を150石で召し抱え、小姓格で高知城の石奉行(穴太奉行)に任じています。

北川豊後は「穴太手筋就中巧者の達者」と言われていますよ。

現在も穴太衆の子孫たちは、日本の各地で石工の専門家として活躍しています。

高知城天守と石垣   by:photo-ac

 

*こちらもどうぞ

▼PR

 

 

【参考文献】

『城 7 四国 黒潮寄せる南海の城』(毎日新聞社 平成9年1月25日発行)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年7月15日発行)、井上宗和『日本の城の基礎知識』(雄山閣 平成3年7月5日再版)、『別冊歴史読本 入門シリーズ 日本城郭大事典』(新人物往来社 1997年6月27日発行)、石井進監修『文化財探訪クラブ6 城と城下町』(山川出版社 1999年7月25日 1版1刷発行)他

▼PR