79回目になりました。
篠山城は徳川家康によって、大坂城豊臣方との戦いに備え天下普請で築城した平山城です。
「日本100名城」(第57番)に選定、桜の名所としても有名ですよね。
別称は桐ケ(きりが)城です。
私は1999年4月25日に初登城しました。
その後大書院が再建されてからもたびたび訪れています。
最近では2022年3月4日に再度取材してきました。
篠山盆地は、山陽・山陰・近畿を結ぶ交通の要、丹波から京都や大阪に通じる街道の要衝の地です。
室町時代以後、丹波一帯は盆地の東にある八上(やがみ)城を拠点とする波多野(はたの)氏が治めていました。
しかし、織田信長配下の明智光秀の攻撃により、天正7年(1579)に八上城は落城、波多野氏は滅亡します。
関ヶ原の戦いの後、家康が築かせた城はいくつかありますが、篠山城もそのひとつ。
これは大坂城の包囲網としての城で、他には福山城や尼崎城、岸和田城などがあります。
丹波路を押さえることにより、中国の毛利氏、堀尾氏、中村氏などの豊臣系の大名と大坂の豊臣家とを分断できるのですね。
笹山と呼ばれた小山に篠山城は築かれました。
津城主で名築城家の藤堂高虎に縄張りを、普請の総奉行には娘婿の姫路城主・池田輝政(てるまさ)を指名します。
▼関連記事
福島正則、森忠政など西国15国20大名に天下普請の助役(すけやく)を命じ、慶長14年(1609)3月から築城がスタートしました。
総勢8万人にも及ぶ人数を動員して、その秋にはほぼ完成したと言われています。
戦いを見据えた突貫工事だったのでしょうね。
家康は、前年に常陸国(ひたちのくに)笠間城から八上城城主にしていた実子の松平(松井)康重(やすしげ)を篠山城の初代城主に据え、八上城を廃城。
康重は、八上城の城下の人々を諸役免除の特典を与えて、町ぐるみ篠山へ引っ越させ、新たな城下町を築きます。
城下町は現在も昔の面影をよく残しています。
康重は大坂夏の陣のあとの元和5年(1619)に岸和田城に移り、その後に藤井松平氏、形原(かたのはら)松平氏と譜代大名の松平氏一門が三家にわたり城主となりました。
寛延元年(1748)に丹波亀山城から青山忠朝(ただとも)が5万石で入城、以後青山氏6万石の居城で明治を迎えます。
青山氏は徳川幕府の老中として活躍する名門大名でした。
********************************
篠山城絵図で分かるように、篠山城の縄張りは梯郭式と輪郭式を併用しています。
・小高い丘陵を主郭とし、内濠が巡る
・東側に長方形の殿守丸を築く
・西側に方形の本丸と二の丸を梯郭式に築く
・それらを三の丸が輪郭式に囲む
・さらに周囲に外濠を巡らせる
天守台は造りましたが、天守は家康の命令で建造されませんでした。
また本丸には御殿などのような建物を建築してません。
本丸には二重隅櫓3基、二の丸には三重櫓1基と二重隅櫓5基を配して多聞櫓で連結する、堅固な構造となっていたようです。
水濠で囲んだ三の丸は大変シンプルな四角形ですが、土塁上に三重隅櫓一基と二重隅櫓三基を建てて屏風折れの塀を巡らせていました。
防御力を高めるために横矢が掛けられるようにしていたのですね。
本丸・二の丸は高石垣で築かれていますが、三の丸は虎口周辺を除き土塁で囲み、水濠で防御しています。
また、四周は一辺が約400mと小規模ですが、出入り口は桝形。
三の丸から三方向に突き出た三門にはそれぞれ土橋と角馬出(かくうまだし)が造られました。
規模は小さなお城です。
しかし藤堂高虎や池田輝政などが当時最高の築城技術を駆使して造った、堅固にして華麗な城郭ですね。
二の丸には、二条城御殿を倣ったと言われる大書院などの御殿が設けられていました。
南側を流れる篠山川を防御の前線としています。
篠山城址は、本丸をはじめ各曲輪の石垣、堀などの縄張り全体がほぼ完全な形で残っています。
街の中にあって、この保存状態の良い城址は全国でも珍しいもの。
そのため城郭研究のうえで貴重な城址として、国の史跡に指定されています。
明治6年以降、城の建物は払い下げられます。
大書院も100円で落札されました。
しかし、取り壊しに多額の費用が掛かることから保存され、篠山小学校の校舎として使われた後、大正12年からは郡の公会堂となっていました。
しかし残念なことに、昭和19年1月6日の失火により焼失してしまいます。
古地図、古写真、発掘調査などの総合的な学術調査が実施され、その成果に基づいて、平成12年3月に大書院が 復元されました。
大書院は藩の公式行事に使われた建物で、京都二条城の二の丸御殿の一棟である遠侍(とおさぶらい)と呼ばれる建物と、部屋割りや外観がよく似ています。
一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものといえるそうです。
手前が二の丸御殿跡。
向こうに鳥居があるところが本丸で、藩主を祀っている青山神社があります。
本丸の西側の石垣には、自然の岩盤をそのまま利用しています。
これは篠山城が笹山の小山に築城したこと実証しています。
埋門は、非常時に手前の窪地を石や土で埋めて、中に入れなくできる門です。
門を出ると高石垣となっています。
階段で犬走りに下りられますよ。
天守台や本丸などの高石垣には、その部分の担当者を示すと思われる符号が石材に刻印されているのが見つかります。
なんとその数250種類もあるそうですよ!
上の写真は二の丸埋門石垣南角に残る刻印です。
下の説明パネルに書かれているように「三左之内」と読める刻印は、築城時に普請奉行を務めた池田三左衛門輝政の名を印したものといわれ、刻印中の白眉として知られています。
二の丸には、大書院入口右側と庭園跡に井戸が二つありました。
石垣は打込接ぎを主にして、野面積みを混用しています。
奥の天守台の石垣は、高さ19m、本丸は約15m、二の丸の石垣は約13mの高さです。
いずれも直線的勾配となっています。
石垣の裾と内堀の間に広く取られた犬走りは、藤堂高虎の城に特徴的な石垣の築き方。
本丸や二の丸の石垣は、藤堂高虎好みの高石垣になっていますよ。
三の丸の西側と南側の土塁。随分と高い土塁です。
南馬出は、土塁馬出としては全国唯一の大変貴重な遺構です。
馬出の周囲の土塁は、三の丸土塁と同じぐらいの高さ。
土塁の向こう側は水濠が囲んでいます。
濠側からみた南馬出。土塁の上に木が生えて形状が分かりにくいですね。
**********************************
篠山観光案内図
城の外濠西側にある御徒士(おかち)町武家屋敷群で、藩主の護衛にあたる御徒士衆が住んでいました。
安間家(あんまけ)が史料館として公開されています。
巨大な猪の顔。
歩いていて二か所発見しました。
郷土料理のぼたん鍋など猪肉料理の店が多いですね。
篠山には、篠山城だけでなく城の周辺に青山歴史館・武家屋敷安間家史料館・歴史美術館・丹波杜氏酒造記念館など、見どころがたくさんあります。
4時間ぐらいの時間を取って、ゆっくり見学・観光することがお勧めです。
1923年の建築当時、篠山の町では最もモダンな建物だったようです。
大正時代の代表的な洋風建築として価値があり、今は篠山観光の中核施設として活用され、篠山の特産品や土産物などが販売されています。
なかに「ROMANTEI」という地元食材を使ったレストランがあり、猪肉を使った料理が食べられます。
私は、猪肉山椒焼御膳をいただきました。
大変美味しかった!!
その後「ほろ酔い城下蔵」という1797年創業の鳳鳴酒造の蔵元に行きました。
お土産に、篠山城築城四百年記念に造られた「鳳鳴純米酒 篠山城」というお酒を買って帰りました。
*篠山城詳細
・アクセス:JR福知山線・篠山口駅より、神姫バスで15分、「二階町」下車、南へ300m
・営業時間:9:00~17:00
・休業日:毎週月曜日(祝祭日のときは、その翌日)/ 年末年始(12月25日〜翌年1月1日)
▼PR
【参考文献】
平井 聖監『城 6 中国 甍きらめく西国の城塞』(毎日新聞社 平成8年11月25日発行)、日本城郭協会監修『日本100名城 公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ一』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、全国城郭管理者協議会監修『復元イラストと古絵図で見る日本の名城』(碧水社 1995年4月18日第一刷発行)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日初版発行)、森山英一編著『古写真大図鑑』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)、「篠山城大書院」パンフレット他
▼PR
▼PR