25回目、九州は熊本県にある、熊本城です。
度重なる災害で受けた被害は大きいですが、多くの人に愛されてきた名城ですね。
熊本城は、戦国きっての猛将かつ希代の名築城家と謳われた加藤清正(きよまさ)が、持てる技術を駆使して築いた火の国の名城・難攻不落の堅城です。
2006年日本100名城(第92番)に選定されている壮大な平山城で、別称は銀杏(ぎんなん)城。
12の櫓と二つの門や253mにも及ぶ長塀を残し、復元された大小天守とともに、姫路城や大坂城にも匹敵する堂々たる大城郭の威容を伝える城、三大名城の一つです。
私は2002年6月7日に登城しました。
熊本城は、日本で一番元気な城でした。
昭和35年(1960)には、天守を瓦の枚数に至るまで忠実に復元。
昭和55年には大手門を、そして平成11年(1999)から南大手門、戌亥(いぬい)櫓、西大手門、元太鼓櫓、未申櫓、飯田丸五階櫓、本丸御殿と次々と昔の建物を復元していました。
それを支えていたのは熊本県人、熊本市民はもちろんのことですが、全国から「一口城主」として寄付した人たちです。
ところが平成28年(2016)熊本地震で大きな被害を受けました。
現在、熊本城は「復興城主」制度と、熊本城災害復旧支援金の二通りの方法で熊本城への寄付金を募っています。
きっと近いうちに、元通り、いやそれ以上の立派な城郭として蘇ると私は信じています。
ここでは、地震前の熊本城について書いておりますので、ご承知おき下さい。
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まずは歴史から。
秀吉の九州平定後、肥後49万石の領主として隈本(くまもと)城に入った佐々成政(ささ なりまさ)は、領内で起きた乱の責任を問われ切腹となりました。
その成政に代わり、天正16年(1588)に加藤清正と小西行長(ゆきなが)が半分ずつ肥後を治めることになりました。
関ヶ原の戦いで加藤清正は徳川方につき、戦後行長の領地も合わせて54万石の大大名となります。
熊本城は慶長6年(1601)、室町時代に築かれた千葉城や隈本城があった茶臼山と言われた台地に、加藤清正が自分に相応しい居城と願って築城。
その6年後(1607)に完成します。
この時地名の隈本を熊本に改名しました。
坪井川の流れを人工的に変えて濠としています。
本丸には小天守を連結した大天守、そして各曲輪には三重五階の宇土櫓をはじめ、三重天守に匹敵する五階櫓を五基も建てたそうです。
天守丸(内城)の周囲に飯田丸・数寄屋丸・西出丸の3つを配置。
南側に竹の丸を置き、西出丸を囲む空堀から西側に二の丸と三の丸をおいた、梯郭式縄張りの壮大な平山城です。
扇の勾配の高石垣の上に下見板張りの大小天守をのせていますね。
大天守は五重六階地下一階、入母屋破風を付けた建物の上に望楼をのせた形で、付櫓で三重四階地下一階の小天守と結ばれている望楼型連結式天守です。
窓は最上階を除いて、外に突上戸(つきあげど)と呼ばれる板戸を設けています。
古い手法ですが、風雨を防ぐ効果は高く実用面で優れています。
二階に渡る巨大な千鳥破風と最上階に唐破風の出窓がつけられています。
軒下部分だけ白壁で他の部分は黒の下見板張りをした全体的に黒っぽい、いわゆる「黒い城」です。
いかにも戦国武将を思わせる姿をしていますね。
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下の写真でもわかるように、大天守の一階部分は石垣の天端から大きく張り出しています。
これは天守に敵が迫った時一階の床を外せばすべてが石落としになるように考えられたもの。
それに対して写真では分かりづらいですが、小天守は石垣の天端に合わせて造られ、建物と石垣の境目には鉄串による「忍び返し」を巡らしています。
このように熊本城は、近世初頭に建てられた城として、至る所に高い軍事性・防御性を備えた要塞建築でした。
熊本城の石垣は、扇の勾配と呼ばれる美しいカーブを描く高石垣です。
清正の築城技術の真骨頂と言えるでしょう。
阿蘇火山灰層で地盤が柔らかいため、石垣は城地の強化のためには必須でした。
まずは裾の方を緩やかに積み、次第に急勾配とし、天端に至ると垂直になる技法で「武者返し」と言われています。
また「清正(せいしょう)流の扇の勾配」とも言われるこの石垣の反りは、ただ形が美しいだけでなく、下に行くほど重力が分散されるために崩壊しにくいそうです。大事!
三重五階地下一階で最上階に廻縁高欄が付いている宇土櫓(うどやぐら)は、大天守・小天守に次ぐ「第三の天守」ともよばれる望楼型。
続櫓は端が二重櫓となっている天守風建築です。
重要文化財に指定されていますね。
優雅に見える大天守の千鳥破風と違い、直線的な千鳥破風が印象的です。
小西行長の居城だった宇土城の天守を移築したという話も残っていますが、松本城の五重の天守とほぼ同等の大きさなのですから驚きますね。
また、宇土櫓の石垣は約33mもあり、熊本城では最も高い石垣です。
清正は、何故これほどまでに堅固な城郭を作ったのでしょうか?
秀吉子飼いの清正(清正の母は秀吉の生母お仲と従姉妹の関係です)は関ヶ原の戦いでは徳川方について戦いました。
九州にて活躍しています。
しかし、それは石田三成との関係からであって、本心から徳川の味方ではないのです。
家康が天下を取ったことで自分に攻撃の矢が向けられるかもしれないと考え、身を守るのに充分な城を築き、あるいは豊臣家の再起の機会に備えたのかも知れません。
清正は、その後の慶長16年(1611)豊臣秀頼を伴い、家康と対面するために二条城に赴きました。
無事その対面の任は終えましたが、熊本に帰る途中で病気となり、熊本城に帰るとすぐ亡くなります。
徳川の毒殺という話もありますよ。
あくまでも豊臣家に寄り添う清正を、家康は恐れたのかも知れません。
平成20年(2008)熊本城築城400年を記念して復元された豪華絢爛の本丸御殿には、折上格(おりあげごう)天井・金碧障壁画で飾られた「昭君之間(しょうくんのま)」があります。
中国前漢時代の悲劇の美女「王昭君」の故事が描かれた最も格式の高い部屋です。
これは清正が豊臣秀頼公を迎えるために作った、つまり徳川への偽装の為の名前であり、「将軍(秀頼)之間」の隠語であるという噂までささやかれています。
この本丸御殿の最大の特徴は「闇(くらが)り通路」と呼ばれる地下通路です。
そこが本丸御殿への正式な入り口です。
このような地下通路を持つ御殿建築は全国でも他に例を見ません。
清正の死後、清正の子の忠広は、三代将軍家光によって武家諸法度に背いたという理由で出羽庄内に流罪となります。
その後熊本城には、細川忠利(ただとし)が入封しました。
そしてそのまま明治まで240年間存続します。
言ってみれば、徳川家は清正という名築城家にその技術の限りを尽くして堅城を築城させた後、城を奪った訳です。
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入封した細川忠利は、熊本入りのさいに清正が祭られている本妙寺を訪れ、「城を預からせていただきます」と入城の挨拶をし、さらに歴代当主もずっと加藤清正公に敬意を払い続けたと言われています。
明治10年(1877)年、西南戦争により13,000余の西郷隆盛軍に対して籠城していた谷干城(たに たてき)司令官率いる鎮台軍はわずか4,000人程。
兵も武器も圧倒的に西郷軍優位の戦いでしたが、清正が築いた難攻不落で堅固な熊本城は50日余の籠城を持ち堪え、ついに西郷軍は攻城を諦め撤退します。
このとき西郷さんは、「清正公と戦(いくさ)しよるごたる」と一言つぶやいたと伝わっています。
この戦いの3日前、原因不明の出火で大小天守をはじめ本丸の大部分が焼失しましたが、宇土櫓をはじめ12基の櫓が現存、清正流と称される高石垣もほぼ完全な姿で残っていました。
熊本城の桜並木 by:photo-ac
熊本城は日本さくら名所100選にも選ばれています。
春には城内いたるところで桜を楽しめますよ、ぜひどうぞ。
【九州2泊3日4城址を訪ねる旅】
2002年6月7日から2泊3日で九州の4城址を探訪しました。
7日はまず熊本城へ。
この日は続いて石垣や水濠、本丸跡が良好な状態で残っている八代城址を訪ねました。
翌8日は宮崎県の延岡城址を探訪。
千人殺しの急勾配の三の丸石垣が有名ですね。
それにもう1つ驚いたのは、本丸跡になぜか民家と思われる家が一軒建っていたことです。
9日は同じく宮崎県の佐土原城址に行きましたが、これといった遺構はなく二の丸に御殿風な佐土原城跡歴史資料館がありました。
2泊3日で四城址を楽しんだ、2002年初夏の思い出です。
熊本城の公式サイトです。
歴史その他がよくわかって面白いですよ!ぜひのぞいてください。↓↓
*熊本城詳細
・アクセス:熊本駅から花畑町まで電車で15分 花畑町から徒歩5分
・営業時間:復旧中にて特別公開など。詳しくは公式サイトで確認ください。
・休業日:12月29日~12月31日
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【参考文献】
平井 聖監修『城 8 九州・沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、千田嘉博講師『体感・実感! にっぽんの名城』(NHKテレビテキスト 2011年1月―3月)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる 日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)他
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