日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

お城大好き雑記 第130回 米沢城

米沢城址    by:photo-ac

城の紹介記事を書いてきて、今回は130回になりました!

読んでくださる皆様に感謝しております。

今回紹介する米沢城は、奥羽の覇者・独眼竜伊達政宗が誕生した城、伊達の飛躍の拠点となった城です。

後に上杉家が治め、重臣直江兼続(なおえ かねつぐ)が城代となります。

関ヶ原の戦いのあとは、居城である会津若松城から米沢に移封された上杉景勝(かげかつ)の居城となりました。

米沢盆地中央を流れる最上川上流の松川扇状地の中央部に築かれた平城ですね。

別称は松ケ岬(まつがさき)城、舞鶴

日本100名城(第109番)に選定されています。

米沢城へは2003年7月20日に攻城しました。

 

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米沢城本丸跡にある上杉神社   by:photo-ac

鎌倉時代の暦仁元年(1238)に、地頭職として下向した長井時弘が築いた城館が、米沢城の始まりと伝わっています。

南北朝争乱期の康暦2年(1380)に伊達宗遠(むねとう)が侵略して長井氏を滅ぼし、その後約200年の間、米沢は伊達氏の支配地でした。

米沢城は伊達家の居城となります。

家督を継いだ伊達政宗は近隣諸国を攻め取り、奥州有数の戦国大名になりました。

ところが天正19年(1591)の豊臣秀吉による奥羽仕置により、政宗岩出山(いわでやま)城に退去を命じられてしまいます。

代わって会津若松城に入封した秀吉の重臣が、蒲生氏郷(がもう うじさと)です。

蒲生氏の時代に、米沢城は会津若松城の支城となります。

次いで慶長3年(1598)には、越後春日山城から会津若松城に120万石で入った上杉景勝の居城となりました。

景勝は重臣直江兼続を、30万石米沢城の城代とします。

しかし、わずか2年後の慶長5年、関ヶ原の戦い石田三成に与した景勝は会津120万石を没収されました。

越後の雄だった名門上杉家は、領国が4分の1となる米沢のみの30万石に減封。

会津若松城に住んでいた上杉景勝は米沢城に入封、米沢城が上杉家の居城となりました。

現在の米沢城は、兼続によって近世城郭として大規模な拡張工事が行われた城郭です。

以後、米沢城は上杉家で明治を迎えます。

戊辰戦争では仙台藩とともに奥羽列藩同盟のリーダーとして政府軍と戦いましたが、負けてしまいました。

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出羽国米沢城絵図「(『城 1 北海道・東北』より)

上の正保城絵図で分かるように、米沢城は方形の本丸、それを囲む二の丸、さらにその外側に三の丸を置いています。

二重の水濠で本丸と二の丸を囲み、広い三の丸を水濠と川で防御を固めた輪郭式の縄張りです。

直江兼続によるものと言われていますよ。

兼続は、米沢城の大修築を行いました。

松川上流に堤防を築いて川の流れを変え、外郭として三の丸を置きます。

西の外濠の代わりに堀立川を掘削して、約10年かけて本丸の修築と二の丸、三の丸を新設しています。

30万石大名の上杉家の居城ですが、徳川幕府に対する配慮から天守は築かれませんでした。

本丸の東北隅と西北隅に三重櫓を二基置き、東北隅の丑寅三重櫓が天守の代用とされました。

ほかに隅櫓は10基あったようです。

米沢城は、石垣が築かれることもなく、土塁と水濠に守られた典型的な平城。

建物の遺構はまったくありませんが、本丸と二の丸の土塁と水濠はよく残っています。

米沢城本丸水濠  by:photo-ac

 

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ここからは、米沢城城主である上杉家のお話をみていきましょう。

 

3代藩主である網勝(つなかつ)の急死に際し後継ぎがいなかったことから、甥の吉良(きら)三郎を養子として届けます。

三郎は、わずか三歳で4代藩主、上杉綱憲(つなのり)となりました。

彼は赤穂事件で有名な吉良上野介義央(よしなか)の長男ですね。

しかし、これは幕府が認めない末期養子です。

そのためかろうじて改易だけは免れたのですが、さらに石高を半分の15万石に減らされてしまいました。

米沢藩は、120万石から30万石に減封された時に、家臣をまったく減らさなかったため、藩財政は慢性的に逼迫していました。

そのうえの減封ですから、米沢藩はかつてないほどの財政状況となります。

さらに、4代藩主・綱憲の実父である吉良義央の発言は藩政に大きく影響を及ぼし、吉良家の小大名並みの贅沢な生活費や邸の新築、負債の肩代わりなどを米沢藩は負担していきます。

これではただでさえ困窮を極めていた米沢藩の財政は、破綻に向かうしかありませんでした。

そして何とか耐えていたところに、8代藩主であった重定(しげさだ)は財政再建には無策であったばかりでなく、能にうつつを抜かし、米沢藩を幕府へ返上することさえも考えたほどの愚かな藩主だったそうです。

上杉鷹山像   by:photo-ac

これを立て直したのが、有名な9代藩主の上杉治憲(はるのり、のちの鷹山ようざん)です。

鷹山は、日向国高鍋藩3万石藩主・秋月種美(たねみ)の次男として生まれます。

鷹山は、遠く米沢藩の養嗣子として米沢にやってきたのですね。

明和6年(1769)に17歳で家督を継いだ鷹山は、藩内の抵抗勢力を押さえ、財政改革、殖産興業、新田開発など藩政全般を大幅に刷新していきます。

また、経済振興を図る一方、自ら一汁一菜を実行し、藩士に率先して倹約に努め、その改革への強い意志を示します。

ロウの取れる漆の木100万本植樹など、次々に実施。

結果的に鷹山の政策は大きく実り、天明の大飢饉のときも、藩内では一人も餓死者を出さなかったそうですよ。

鷹山は35歳で隠居しましたが、藩政に生涯を捧げています。

隠居に際し、次の藩主である治広(はるひろ)に贈った「伝国の辞」は民主的な君子としての心得を示したもの。

彼が子の顕孝へ与えた和歌「なせば成る なさねばならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり」は有名ですよね。

鷹山は文政5年(1822)に72歳で波乱の生涯を終えますが、この年、領内すべての村の年貢は完納され、翌年には借財の大半が返済され、余剰金すら藩庫には残っていたというほどに財政が改善されていました。

米沢では、鷹山の遺徳を偲んで、毎年9月に「上杉鷹山公まつり」が開催されています。

わたしの好きな小説家の藤澤周平は『漆の実のみのる国(上・下)』(文春文庫)で、上杉鷹山を描いています。

是非読んでほしい小説ですね。

有名な上杉鷹山公の名言    by:photo-ac

 

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明治になり、本丸跡は上杉神社境内と松が岬公園となりました。

明治9年には、本丸に上杉謙信を祀る上杉神社を創建しています。

上杉神社は、大正8年(1919)の大火災にあいましたが、同12年に再建されました。

上杉神社 上杉謙信公像   by:photo-ac

 

*米沢城詳細

・住所:山形県米沢市丸の内1

・アクセス:JR山形新幹線奥羽本線米沢駅から山交バス「白布温泉行き」バスに乗り、「上杉神社前」バス停下車

・営業時間:24時間

・休業日:なし / 上杉神社内稽照殿は冬期間閉鎖、12月1日~3月31日

 

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【参考文献】

平井 聖監修『1 北海道 東北 吹雪舞うみちのくの堅城』(毎日新聞社 平成9年3月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第7刷発行)、『城 其の二』および『同 解説編』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、森山英一編著『古写真第図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)。『歴史読本 江戸三百藩藩主総覧』(1997年8月号 新人物往来社)他

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