日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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気ままにぶらっと城跡へ㉕柏原陣屋に行ってきた

柏原陣屋表御殿

「気ままにぶらっと城跡へ」の第25回目は、兵庫県丹波市にある柏原(かいばら)織田家の陣屋跡の紹介です。

柏原の織田家は、「気ままにぶらっと城跡へ⑲宇陀松山城」で紹介した織田家の末裔ですね。

柏原陣屋跡は、JR福知山線柏原駅から約10分のところにありました。

遺構として残っている表御殿の一部と長屋門は、近世陣屋史上貴重なものとして国の史跡に指定されています。

以前にも攻城したことはあるのですが、今回取材のため2023年11月5日に再訪してきました。

柏原は、もともと「栢原」と表記していましたが、明治3年の太政官により改称されています。

JR福知山線柏原駅

なかなかユニークな駅舎ですよね。

エスタンチックな……。

もちろん櫓をイメージしたとは思えませんが、一応調べてみると面白いことが分かりました。

こちらは平成2年(1990)に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」で、会場内アクセス路線で使われた「山の駅」の駅舎だそうです。

博覧会閉幕後に、丹波の森構想に合致するものとして柏原駅舎として移築されたとか。

移築は大変だったでしょうね。


柏原陣屋がある兵庫県丹波市柏原町は、八幡神社門前町として発展し、後には織田家柏原藩の城下町として栄えた町です。

織田家家紋の木瓜紋のある「城下町かいばらやぐら筋」の街灯

織田家の家紋は、織田信長が滅ぼした越前朝倉家からもらった木瓜もっこう)紋です。

朝倉家は、一般的には「三盛木瓜」紋ですが、もともとはひとつ木瓜紋でした。

織田信長の先祖は、朝倉氏が治めていた福井県の織田町から出た豪族だそうです。

先祖は主筋の朝倉家の娘を妻として迎えるとともに、朝倉家の木瓜紋をもらったといわれています。

織田家木瓜紋は、朝倉家の四弁とは違って五弁の木瓜で「五窠(ごか)」または「織田木瓜」と呼ばれていますよ。

織田木瓜紋     by:photo-ac

柏原歴史資料館横に設置されている織田信包

柏原藩は、慶長3年(1598)に、織田信長の弟織田信包(のぶかね)が36,000石で入封、立藩しました。

8歳で柏原藩三代目藩主になった信勝(のぶかつ)は、新田開発や堤防を築くなど善政を敷いた名君でしたが、慶安3年(1650)に28歳で亡くなります。

後継ぎがいなかったため織田家はお家断絶となってしまい、以後天領となります。

しかし、「気ままにぶらっと城跡へ⑲宇陀松山城」で紹介したように、元禄8年(1695)に大和国宇陀松山藩織田家にお家騒動が起こり、宇陀松山藩織田氏の第4代藩主・信武が自害してしまいました。

このため、5代目の信休(のぶやす)は丹波国氷上郡柏原(かいばら)に、2万石に減封のうえ転封、宇陀松山藩は廃藩となりました。

一般に「宇陀崩れ」と呼ばれているこの事件で、国替えによって柏原に織田家が入封してきました。

45年ぶりに織田家の治める柏原藩となったわけです。

織田信長の次男・信雄(のぶかつ)の子孫である織田信休が、柏原藩織田家後期初代藩主です。

織田家10代で明治を迎えました。

柏原陣屋跡碑

聖徳4年(1714)、柏原陣屋は、背後を大内山に抱かれたゆるやかな傾斜地に居館及び政庁として造営されました。

信休が柏原に転封してきてから、実に20年も経過した後のことです。

これは、転封当初は財政的に困窮していたためで、信休は庄屋に住んでいたと伝わっています。

当時の陣屋の郭内には、表御殿、中御殿、奥御殿からなる主屋、藩政を執行する御用所や藩校の崇広館、土蔵、作事所などの建物と、自然の地形を巧みに取り込んだ回遊式池泉庭園や稲荷神社もありました。

また広大な面積の馬場や調錬場もあり、領内に築かれた政所としての機能を備えた館だったそうです。

御殿は文政元年(1818)に焼失しましたが、2年後に再建されました。

 

陣屋の復元模型がパネル展示されていましたよ。

陣屋には石塁の上に高塀が巡らされていたのですが、堀や土塁などの防御施設は構築されていません。

かろうじて陣屋の正面付近には桝形が備えられ、周囲は長屋門など七か所の門で固められていました。

 陣屋内展示パネルより

 柏原陣屋表御殿

現存する陣屋は、文政3年(1820)に再建された表御殿の一部で、旧政庁の約5分の1の部分です。

ここは藩主が藩士や来客と対面するなどの、公的な儀式の場として使用されていました。

外観は桃山時代風の書院造。

檜皮葺唐破風の玄関と東南方向へ雁行式に続く桟瓦葺寄棟造の大書院は、再建された当時のままの姿をみせています。

明治以降は小学校など、公用施設として使用されていました。

柏原陣屋は全国でも数少ない陣屋遺構として貴重な建造物です。

陣屋跡の向かいに柏原歴史民俗資料館があり、柏原藩主織田家の歴史資料などを展示しています。

資料館の観覧券で陣屋跡にも入場できますので、まず資料館で柏原藩や陣屋のことを学習してから陣屋跡に行くほうがよいでしょう。

陣屋の表御門にあたる長屋門

文政元年の火災で表御殿は焼失しましたが、柏原陣屋の表御門である長屋門は類焼を免れ、創建当初のまま残っています。

向かって左側が番所、右側が馬見所と砲庫だったようです。

大歳神社境内の太鼓やぐら

江戸時代に建てられ、大手門の南東側にあった三重三階櫓が、陣屋の遺構として残っています。

現在地の大歳神社境内に移築されたのは、明治時代になってからのようです。

内部は見学できませんでしたが、最上階には、「つつじ太鼓」と呼ばれる大太鼓が吊るされているということです。

設置されている説明板によると、その太鼓は寛文8年(1668)に製作され、その後革を張替えた時の銘が残っていて、奈良宇陀松山藩の時代から使われていたことが分かっています。

国替えの時、奈良からわざわざ柏原まで持ってきたんですね。

普段は藩士の登城の合図や時報、火事の時などに打たれていました。

また、参勤交代で藩主が江戸から城下に帰ってきたときにも打たれていたそうです。

柏原駅前にある現在の太鼓櫓

健勲神社

健勲(けんくん)神社は、柏原藩主織田家の先祖織田信長を祀る神社です。

明治2年(1869)、朝廷から信長の勤皇敬神を追賞されて建織田社の神号を賜り、翌年健勲神社に改められました。

陣屋内に仮神座を設けていましたが、明治13年に現在地に神社が建てられ、一般の人々も参拝できるようになりました。

現在の建物は平成18年に新たに完成したものです。

説明板によると、健勲神社は京都市天童市と柏原の3ヶ所しかないそうですよ。

「健勲」は正式には「たけいさお」と読むようですが、一般的には「けんくん」と呼んでいると、京都市の健勲神社の紹介文に書かれていました。 

織田神社

織田神社の祭神は、前期柏原藩3代目の織田信勝です。

信勝の死後、信勝の母が旧居跡に建てた霊廟がはじまりで、文政年間に現在地に移されました。

「織田権現」と称して織田家の庇護と柏原町衆の厚い信仰を受けている、と説明板に書かれています。

ケヤキ「木の根橋」

織田神社の前には柏原町の観光名所「木の根橋」があります。

樹齢1000年とも推測される大ケヤキの根が、幅6mの奥村川を跨いでいて、自然の橋の形となっています。

兵庫県の天然記念物に指定されていますよ。

すぐ隣に柏原八幡宮と観光案内所があります。

柏原八幡宮は、万寿元年(1024)に京都の石清水八幡宮の別宮として創建されました。

安土桃山時代に再建された本殿と拝殿の複合社殿が、国の重要文化財に指定されています。

(写真は筆者撮影)


【お問い合わせ】
丹波市観光協会 かいばら観光案内所 TEL:(0795)73-0303

 

柏原陣屋詳細

・住所:兵庫県丹波市柏原町柏原683

・アクセス:JR福知山線柏原駅から徒歩8分

・営業時間:9:00~17:00(最終入館16:30)

・休業日:毎週月曜日(祝日の場合はその翌日) / 12月29日~1月3日

 【参考文献】
丹波市立柏原歴史民俗資料館 田ステ女記念館パンフレット」、「かいばらお
さんぽマップ」、丹波市観光協会織田家の城下町 柏原」、西ヶ谷恭弘編『国
別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、

楠戸義昭『家紋 秘められた歴史』(毎日新聞社μBooks 1991年4月10日発行)、

丹羽基二『〔家紋と家系〕事典』(講談社+α文庫 2009年12月1日第7刷発行)

他 

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