9月2日(2022年)、兵庫県にある播磨の小京都・醤油の町・素麺の町・童謡の里として有名な龍野に、気ままにぶらっと行ってきました。
龍野城には、出張の帰りに寄ったり家族で観光したりして、何度も行っています。
別称は霞城(かじょう)城、朝霧(あさぎり)城。
初めて龍野城を攻城したのは、1999年5月1日でした。
播磨一帯を領有していた赤松氏は、龍野を西播磨の要として重視します。
標高約210mの鶏籠山(けいろうざん)が揖保川に張り出していますが、その山上に赤松氏の戦国時代の山城がありました。
龍野城は、城山(きやま)城と白旗城という2つの城と連絡するネットワーク上で、重要な城でした。
城山城は鶏籠山から山伝いに北方にあり、白旗城(赤松氏の本拠地の城)は西方にありました。
しかし、羽柴秀吉が播磨を攻めた天正5年(1577)に、龍野城4代目の城主であった赤松広英(ひろひで)は、戦わずして城を明け渡します。
その後、豊臣系の武将が相次いで城主となりました。
石川光元(みつもと)のときに龍野城は山麓に移され、別称「霞城」と呼ばれる平山城が築かれたようです。
龍野藩は、元和3年(1617)に姫路城主・本多忠政の次男忠朝(ただとも)が5万石で封じられたことに始まった藩。
この時代に、現在山麓に残っている規模の城郭が整備されましたが、小規模なもので天守などはなかったようですね。
その後小笠原、岡部、京極氏が入城。
京極氏が万治元年(1658)、讃岐国丸亀に転封すると龍野は天領となり、龍野城は一時廃城しました。
山上の城址には、石垣とともに数段の削平地や竪堀などが残っているようです。
寛文12年(1672)、信濃国飯田から脇坂安政(わきさか やすまさ)が5万3000石で龍野に入封します。
現在城址となっている山麓に、脇坂氏は居館としての龍野城を修築。
石垣を築き御殿を建て、埋門や多聞櫓を建てた程度で、天守はもちろん櫓さえ建立しませんでした。
脇坂氏は外様大名であったので、幕府への謀反あり、というあらぬ疑いを掛けられないようにとの配慮であったと立て看板には書かれています。
以後10代200年間、龍野城は脇坂家の居城として明治を迎えます。
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脇坂氏初代の安治は、秀吉の配下として「賤ケ岳の戦い七本槍の一人」で知られる有名な武将でした。
弟の堀田正俊が大老の時、外様から「願譜代(ねがいふだい)」に転じています。
元禄14年(1701)の赤穂事件の後始末として、4代目藩主・脇坂安照(やすてる)は赤穂城の受け取りの役をして、赤穂城開城後の城地の管理を任されています。
脇坂家は、5万石余の藩主でありながら、のちには老中や寺社奉行、京都所司代などの幕府重職を務める家柄にまでなりました。
【願譜代とは】:江戸時代に外様大名のうちで願い出て譜代大名の扱いとなった者。譜代大名の血筋の者が外様大名の家を継ぎ、幕閣において長年の功績を立てるなどした場合にこの扱いとなった。
ここから見ると埋門の名前が付けられたことがよく分かります。
鶏籠山を背にして、石垣で囲んだテラス状の本丸には居館が置かれていました。
かつて南側の埋門であった現在の櫓門が、大手門にあたります。
本丸の東側に二の丸があり、太鼓櫓と多聞櫓が城下を見下ろすように建てられていたそうです。
昭和50年(1975)から龍野市は、脇坂氏時代の城郭の復元に取り掛かります。
本丸南西部の単層櫓跡に新たに二重櫓が建造されました。
埋門、多聞櫓、本丸御殿、城壁などを、現在残っている絵図を参考にして木造、土壁で再建しています。
古式にのっとったのですね。
三の丸の南側一帯は龍野公園として整備され、市民の憩いの場となっていますよ。
新たに建造された隅櫓は二重の軒唐破風を持ち、出格子窓、隅の石落とし、白漆喰総塗籠で鯱の載った、小振りながらも美しい二重櫓です。
龍野城のシンボルとなっています。
築城時の門は、石垣の中を抜ける名前通りの埋門だったでしょう。
しかし明治4年の上の絵図や江戸時代の絵図を見ると、すでに櫓門となっています。
この図を見ると、埋門を出て右に行き、本来の大手門(冠木門)を出る桝形のような構造だったことが分かりますよね。
おそらく寛文12年に入城した脇坂氏が、龍野城を修築したときに造り変えられたのではないでしょうか。
しかし名前は元通り残していますので、知らなかったら大いに誤解しますね。
防御力を強くするために、櫓門の両側を平櫓と塀で固めています。
幼稚園や裁判所を造るときに石垣を積み替えて、現在のように埋門へ真っ直ぐの道を作り直したのでしょう。
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城下町は鶏籠山と白鷺山の間の谷地形に合わせて作られていて、揖保川までの間で山側を藩士の屋敷、川沿いを町屋(赤い部分)とに分けていました。
本丸の西方には、脇坂氏の別邸聚遠亭(しゅうえんてい)が造営され、二条城内から移築されたと伝えられる茶室が現存しています。
御涼所(おすずみしょ)は、藩主脇坂家の武家屋敷です。
質素な造りのなかにも風雅な趣があり、接客や住居部分などの間取りに特徴があるようです。
また、床下には抜け穴があるとのことです。
心字池(しんじいけ)上の浮堂の茶室は、庭園、池などと調和した書院造りを模した数寄屋風です。
城主・脇坂安宅(やすおり)が京都所司代のときに御所が炎上し、その復興に功績があったとして、孝明天皇から拝領したと言い伝えられているものです。
聚遠亭の前庭から、淡路島や瀬戸内海の島々が眺められます。
その眺望の素晴らしさから、「聚遠の門」と呼ばれ、この付近を「聚遠亭」と称するようになったということです。
龍野神社は、脇坂家の始祖脇坂甚内安治(わきさかじんないやすはる)が祀られています。
それは当然のことだと思えますが、不思議なのは、野見宿禰(のみのすくね)が祀られていることです。
野見宿禰(のみのすくね)は奈良で当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲を取って勝ち、出雲に帰る途中この地で亡くなったということで相撲の神様や元祖といわれている方ですが、なぜ、ここに祀るのでしょうか……?
下級武士の住居を忠実に復元した屋敷です。
最近まで住んでおられたので若干改変はされていますが、主屋の建築年代は天保8年(1837)と推定されています。
童謡「夕焼け小焼けの赤とんぼ~」の作詞者・三木露風が6歳まで過ごした生家
が残っています。
ガイドさんは熱心な方で、大変詳しく説明をしてくれました。
お土産物なども販売しているし、喫茶もあります。
天気が良ければテラス席で。
城下町龍野は、古くからの交通の要衝として栄えていました。
古代には山陽道、中世では都と博多を結ぶ筑紫大道が通り、近世には作州街道などが通っていたのですね。
今も重要伝統的建造物群保存地区に指定され、静かな佇まいを残しています。
前から気になっていたお店に少し遅めのランチに行きました。
きれいな古民家の店で、すこし敷居が高く感じられましたが、入口にメニューがあって入りやすくしています。
箕面ビールがあると書いていたので入りました。
庭が美しく、ゆっくりビールを飲みながらジョンさんの手料理ととろろがいっぱい入ったそばを堪能しました。
(「by:photo-ac」のクレジットが付いていない写真は筆者撮影)
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*龍野城詳細
・アクセス:JR姫新線・本竜野駅からバスに乗り「龍野橋」下車、徒歩8分
・営業時間:10:00~16:00
・休業日:月曜日/年末年始(12/27〜1/4)
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【参考文献】
平井 聖監『城 6 中国 甍きらめく西国の城塞』(毎日新聞社 平成8年11月25日発行)、『城 其ノ一』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年㋆15日初版発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、「龍野城パンフレット」、「たつの市立龍野歴史文化資料館パンフレット」、「聚遠亭パンフレット」、「播磨の小京都 龍野 パンフレット」(たつの市観光協会)他
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