第134回目の紹介は、埼玉県の川越城といきましょう。
川越城は、東国随一の名築城家といわれる太田道灌(どうかん)が縄張りをし、父・道真(どうしん)と一緒に築城した平城です。
江戸の背後を守る拠点城で、関東七名城(※)のひとつですね。
川越城は、「日本100名城」(第19番)に選定されています。
別称は初雁(はつかり)城、霧隠(きりがくれ)城です。
川越城へは、1998年11月15日に登城しました。
※関東七名城:川越城、忍城、前橋城、金山城、唐沢山城、宇都宮城、常陸太田城(あるいは多気城)
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川越城は、関東管領(かんれい)の扇谷上杉持朝(おおぎがやつ・うえすぎもちとも)が、古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)への備えとして築いた城です。
上杉持朝は、長禄元年(1457)に家臣の太田道真・道灌親子に川越城の築城を命じました。
この時期の太田親子は、江戸城と岩槻城も並行して築城中でした。
このとき築城された川越城は、のちの時代の本丸と二の丸を合わせたぐらいの規模の城郭だったようです。
扇谷上杉氏が、以後6代約80年の間、川越城を拠点にして武蔵国を治めます。
16世紀になると小田原の北条氏が勢力を伸ばし、北条氏綱(うじつな)が天文6年(1537)に川越城を攻め、落城。
同15年(1546)に、扇谷上杉は山内(やまのうち)上杉、古河公方と組み、八万余の大軍で川越城の奪回を図ります。
しかし、小田原城から8,000の兵を率いて救援に来た北条氏康(うじやす)の夜襲にあい、大敗に終わりました。
いわゆる「川越の夜戦(よいくさ)」とよばれる夜襲ですね。
この戦いで上杉朝定は討ち死にし、扇谷上杉氏は滅亡、川越城は北条氏の支城となりました。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の戦いで、当時の城代であった大道寺政繁が豊臣方に降り、川越城を開城します。
同年、関東に入った徳川家康が北条氏の領地を治めることになったため、川越城は徳川家の城となります。
家康は、家臣の酒井重忠を入城させました。
以後、江戸城の北辺にあたり、軍事・経済の両面から江戸を支えるといった戦略上重要な役割を担う城だった川越城には、徳川家の重臣や譜代の大名が次々と城主として送り込まれることになります。
寛永16年(1639)に、松平(大河内)信綱(のぶつな)が川越藩6万石に入封しました。
松平信綱は天草・島原の乱に際して一揆討伐軍の総帥として派遣され、乱鎮定の功績によって、「知恵伊豆(いず)」と呼ばれた武将です。
松平信綱は、川越城に新曲輪や外曲輪、田曲輪などを新たに築き、城郭の大修築を行って近世城郭に生まれ変わらせました。
また、前年に焼失した城下町を復興し、近世都市としての体制を整えていきます。
川越街道を整備し、新河岸(しんがし)川の船運も開いて、江戸との交易の拡大も実施。
川越の城下町は「小江戸(こえど)」と称されるほどの繁栄と賑わいをみせていきます。
元禄7年(1694)の大河内松平氏の古河転封後、柳沢吉保が城主となり、以後多くの幕閣の大老・老中が川越城城主として配置されました。
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上の城図は、幕末期の慶応2年(1866)頃、藩主交代の際に、引継ぎのために作成された絵図と考えられています。
川越城は川越台地の東北端に位置し、三方が湿地帯に囲まれた自然の要害でした。
本丸の下に二郭(二の丸)その横に三郭(三の丸)が置かれ、本丸から西に馬場や広い屋敷地が置かれています。
本丸の北、東、南は二重の水濠で守り、西側は二重の水濠と空堀で守られていますね。
西大手門の前は空堀に丸馬出があり、南側には水濠と三日月形の水濠で守られた南大手の丸馬出が置かれた、大変防御力の高い縄張りです。
さらに本丸の南西隅の一段高くなっているところに、天守代用の三重の富士見櫓を設置。
川越城は多くの曲輪をもつ城郭ですが、本丸に三重富士見櫓と二重菱櫓、二の丸に二重虎櫓があるだけの、建築的には簡素な城郭だったようです。
川越城本丸には、嘉永元年(1848)、18代藩主・松平斉典(なりつね)のときに再建された、関東で唯一の本丸御殿が遺構として残っています。
当時は16棟の建物から構成されていましたが、現存しているのは1棟のみ。
車寄せのある大きな唐破風の立派な玄関は壮大で、書院造りの建築遺構としても最大級の規模を持っています。
本丸御殿の遺構が現存しているのは、日本広しと言えども川越城と高知城だけです。
明治維新後民間に払い下げられていた本丸御殿家老詰所も、昭和63年(1988)に本丸に移築復元されていますよ。
かつては天守の代用だった富士見櫓跡が、本丸南西隅に残っています。
どのような構造の櫓だった詳細は分かっていませんが、三重櫓だったそうですよ。
富士見櫓の名前は、江戸城が天守を焼失した後に富士見櫓を天守の代用としたことに由来するようです。
現在は櫓台が残っていて、上には御嶽(みたけ)神社があります。
本丸東側にある天神曲輪には、川越城築城当時から城内鎮護の三芳野(みよしの)天神を祭る神社があります。
毎年の例祭には、城内でしたが一般庶民の参拝が許されていました。
童謡で有名な「通りゃんせ」は、これを歌ったものだそうです。
江戸期に水運を利用して江戸との交易が盛んになり、城下町は発展しました。
現在残っている蔵屋敷は、明治時代に防火のために築かれたものです。
川越は、関東屈指の城下町が保存された観光地。
旧職人町にそびえる「時の鐘」と呼ばれる高さ16mの鐘楼は、観光地川越のシンボルです。
創建は江戸時代初期といわれていますが、現在の鐘楼は明治26年(1893)の大火後に再建された4代目にあたるそうですよ。
室町時代からこの地方の中心地であった川越の町ですが、寛永15年(1638)の大火により町の大部分を焼失してしまいます。
前述したように、翌年に入封した松平信綱が川越の町を再建しました。
信綱は町家を囲むように武家屋敷を配置、道は防衛の観点から城下町特有の袋小路・鍵の手・丁字路(ていじろ)としています。
しかし明治26年に川越の町は再び大火に見舞われることに。
以降、防火に優れた蔵造りの家が多く造られるようになりました。
大きな鬼瓦をのせ、重厚な観音開きの扉があるのが特徴です。
連雀町や幸町には蔵造りの商家町がよく保存されています。
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【2泊3日の埼玉・茨城県4城探訪の旅】
1998年11月13日から2泊3日で埼玉・群馬県の4城址を探訪しました。
忘備録として、ここに記載しておきます。
13日
岩槻城(埼玉県)
岩槻城は、川越城と同時に同じ理由で扇谷上杉持朝の命で太田道真・道灌親子によって築城された平城です。
城跡は公園として整備され、鐘楼と黒門、空堀が遺構として残っていました。
土浦城は「続日本100名城」(第113番)に選定されています。
城跡は亀城公園となっており、本丸正門の立派な太鼓櫓門や土塁などが遺構として残っていました。
また、薬医門形式の裏門である霞門と高麗門形式の仕切門も現存しています。
平成になって本丸西櫓と東櫓が、木造で土塁の上に復元されていますよ。
14日
「日本100名城」(第14番)に選定されている水戸城は、徳川御三家のひとつ、水戸徳川家の居城です。
水戸城には、立派な薬医門や大きな空堀や土塁が遺構として残っています。
薬医門は現在、本丸跡にある水戸第一高等学校の校門として使われていますよ。
こんな立派な校門をもつ学校といえば「赤門」が校門の東京大学ぐらいでしょうか。
15日
川越城(埼玉県)
上述のように「日本100名城」(第18番)に選定されている川越城には、日本では珍しい本丸御殿の一部が遺構として残っています。
富士見櫓跡や空堀、土塁なども残っていました。
城下町川越は蔵造りの町として有名な観光地ですので、このときの2泊3日の城址巡りの旅で、一番の楽しみは川越観光でした。
*川越城詳細
・住所:埼玉県川越市郭町2-13-1
・アクセス:東武東上線/JR川越線・川越駅東口、および西武新宿線・本川越駅から東武バス「上尾駅西口」行き、「埼玉医大」行き、「川越運動公園」行きで約10分、「市役所前」下車、徒歩約5分
・営業時間:9:00~17:00 / 最終入城時間16:30
・休業日:毎週月曜日(休日の場合は翌火曜日) / 第4金曜日(休日は除く) / 年末年始(12月29日〜1月4日)
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【参考文献】
財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、平井 聖監修『城 2 関東 もののふ集う東国の城』(毎日新聞社 平成9年2月25日発行)、『城 其ノ二』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年7月15日発行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)他
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