128回目になりました!
今回は、栃木県の宇都宮城です。
こちらは幕閣の本多正純(まさずみ)が、宇都宮釣天井事件で秋田に追放されたことで有名な城ですね。
宇都宮城は栃木県のほぼ中央にあり、田川を望む段丘の上に築かれた平城です。
徳川将軍が日光東照宮にお参りする「日光社参(にっこうしゃさん)」のときの宿泊場所として重視されていた城で、本丸には将軍のための「御成御殿」が建てられていました。
宇都宮城は「日本100名城」、「続日本100名城」にも選定されていない城郭ですが、近年巨大な土塁の一部と二基の櫓が再建されたことでも知られています。
また、工夫された縄張りによる堅城で、関東七名城のひとつです。
別称は亀ヶ岡(かめがおか)城、唐糸(からいと)城。
宇都宮城へは、2001年11月14日に登城しました。
私が登城したときはまだ土塁や櫓が復元されていませんでしたので、是非再訪したい城です。
※関東七名城:川越城、忍城、前橋城、金山城、唐沢山城、宇都宮城、常陸太田城(あるいは多気城)。
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宇都宮城の築城については諸説あります。
しかし、中でも有力な説が、平安中期の康平6年(1063)に宇都宮氏の開祖・藤原宗円(そうえん)が築いた居館が発展したという説です。
宇都宮氏は平安時代以来、宇都宮城を拠点に下野(しもつけ)を支配し続けた名族です。
しかし、慶長2年(1597)に石高隠匿の罪で突如改易され、22代約550年におよぶ宇都宮氏は滅亡してしまいました。
その後、宇都宮城の城主は目まぐるしく変わります。
近世城郭としての宇都宮城の整備は蒲生秀行に始まり、元和5年(1619)に155,000石で入城した本多正純が継続します。
正純は奥羽に対する備えの要の城として、また将軍の宿城として、石高に見合う近世城郭として大改修しました。
この大規模な修築で、城郭の面積は2倍以上になったようです。
しかし、正純は宇都宮城の改修の許可を幕府に取っていなかったのですね。
それはいかに幕閣といえども、許されることではありません。
本多正純は、この大改修工事と幕閣内での権力抗争で失脚してしまいます。
これが、将軍の日光社参帰りの宿泊中止と結び付けられて、いわゆる「宇都宮釣天井事件」の俗説が生まれたようです。
本多正純失脚後の宇都宮城主は五家が入れ替わり、安永3年(1774)には戸田忠寛(ただひろ)が入城、戸田氏で明治を迎えます。
慶應4年(1868)の戊辰戦争で、宇都宮城は大島圭介・土方歳三らの旧幕府軍に攻撃され、城兵が城に火を放ち退去したため、主要部の建物が焼失してしまいました。
城跡は、その後私有地として分割売却されています。
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本丸跡は御本丸公園となりましたが、そのときは原形を保っていた本丸土塁や櫓台、濠は昭和40年代後半に周辺の開発に伴って消滅します。
平成2年(1990)には本丸に史実にはない石垣が築かれ、ちいさな水濠まがいの濠までが造られました。
宇都宮城過小評価の役人仕事だといわざるをえません。
私が探訪した頃の宇都宮城跡は、城郭跡らしさのない、ただの公園でした。
関東の名高い城郭で、宇都宮城ほど徹底的に破壊され、見る影もなくなった城跡は珍しいほどです。
宇都宮城は、北側にある二荒山神社から延びる丘陵地の先端部分に築かれています。
東から南は田川を外濠として利用。
本丸を二の丸が囲み、さらに北側に複雑な形の三の丸、西側に西館、南側に屋形曲輪(南館)、その外側に「遠囲い」とよばれた外郭が囲んでいます。
大手門を北側に置き、これに続く太鼓門を三日月濠で守る馬出を設け、北側の守りを固めていまていました。
また、それぞれの曲輪を水濠が4重に囲むという、堅固な輪郭式の縄張りです。
本多正純の時代には、本丸には天守があったと伝えられています。
本丸を囲む大土塁のうえに五基の櫓が建てられていました。
天保14年(1843)には、本丸に将軍宿泊用の「御成御殿」が建造。
二の丸には三基の櫓が建てられていましたが、最も大きかった櫓は本丸北西部にあった清明台櫓で、江戸中期以降は天守の代用だったようです。
宇都宮城の虎口は、外側に櫓門、内側が平門という桝形で、普通の虎口とは逆の門の作り方が特徴でした。
発掘調査や文献資料の調査が進んでいくなかで、平成13年(2001)には、宇都宮城跡を史実に基づく歴史公園とすることが決定しました。
ようやく、本来の姿の土塁や濠、櫓などの復元が決定し、発表されたのです。
2007年に巨大な土塁と水濠の一部と櫓が二基復元されました。
土塁の内部では、宇都宮城関連の資料が展示されています。
富士見櫓は本丸西南隅に築かれ、天気の良い日には富士山を望めるそうですよ。
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【栃木県・茨城県10城跡探訪の旅】
2005年10月7日から2泊3日で、宇都宮城をはじめ栃木県と茨城県の10の城跡巡りの旅を楽しみました。
いずれの城跡もこれといった遺構のないところでしたが、それぞれに趣のある城址でしたね。
10月7日
太田城(栃木県)
城跡は竜城公園となっていて、土塁や石垣、空堀が遺構として残っています。
黒羽城(くろばねじょう 栃木県)
城跡の中枢部は公園のようになっていました。
大きな堀切と空堀があり、本丸土塁上には模擬櫓が造られていました。
10月8日
烏山城(からすやまじょう 栃木県)
八高山に本丸、二の丸といくつかの曲輪がつらなっている山城です。
石垣や土塁や空堀が残っていて、戦国時代の山城の面影がありました。
何よりも嬉しかったのは、夏草の下刈りがされていて、城址の姿が良く分かったことでした。
たぶん地域の方々が、ボランテイアで草刈りをして下さったんでしょう。
どこかの山城探訪の時、下草刈りをしてくださっている現場に出会ったことがありますが、「ありがとうございます」とお声がけして攻城しました。
壬生城(みぶじょう 栃木県)
城跡は公園になっていましたが、本丸の修復された土塁と堀の一部が残っています。
宇都宮城(栃木県)
この記事のとおりです。
このときは2回目の攻城で、富士見櫓や清明台櫓、土塀などが、復元工事中でした。
10月9日
下館城(しもだてじょう 茨城県)
本丸跡に八幡神社があり、境内に下館城址碑が建てられていただけでした。
大宝城(たいほうじょう 茨城県)
城跡は大宝八幡神社となっていて土塁は一部残っていました。
人家の入口横に大宝城址碑がありましたよ。
多賀谷(下妻)城(たがたにじょう 茨城県)
城跡は多賀谷城址公園となっていましたが、石碑すらありませんでした。
石下(毛)城(いしげじょう 茨城県)
城跡は八幡神社境内で、土塁の一部が残っていました。
石毛城址の石碑を、境内で発見しました。
豊田城(とよだじょう 茨城県)
「石下町地域交流センター」という写真のような立派な模擬天守がありました。
五重六階建ての層塔型複合式天守といってもよいものです。
二重目の屋根に大きな千鳥破風、三重、四重目に軒唐破風、最上階には廻り縁が置かれています。
しかし、なんとなくおかしく感じられる姿。
無理やり天守風に破風を加えたように見えるのは何故でしょうか?
豊田城跡の石碑は、小具川の堤防の上にありました。
地域交流センターはホールや図書室、石下地方の歴史を紹介した展示室などがある複合施設です。
この石下町では、何か所かで三重の櫓風の建物が見られたのですが、よっぽど城郭が好きな首長がいたのでしょうか。
大変わかりやすいので、ぜひご覧ください!
*宇都宮城詳細
・住所:栃木県宇都宮市本丸町旭1丁目
・アクセス:JR東北新幹線/東北本線(宇都宮線)/日光線・宇都宮駅または宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線(ライトライン)・宇都宮東口電停(ライトキューブ宇都宮前)から関東自動車バス「市内循環線(きぶな)」に乗り「宇都宮城址公園入口」バス停下車、徒歩4分
・営業時間:櫓(やぐら)などの歴史建築物と展示施設は9:00~17:00まで
・定休日:年末年始
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【参考文献】
平井 聖監修『城 2 関東 もののふ集う東国の城』(毎日新聞社 平成9年2月25日発行)、『城 其ノ二』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(正東社 2007年7月15日発行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)他
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