13回目ですね。
大分県にある岡城です。
別称は臥牛(がぎゅう)城ですが、豊後竹田城とも呼ばれています。
2006年に「日本100名城」(第95番)に選定されました。
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ではまず、歴史から。
伝承によると、文治元年(1185)に緒方惟栄(おがた これよし)が源頼朝に追われた義経を迎えるために築いたのが始まりです。
その後建武元年(1334)に志賀貞朝(しが さだとも)が城を改修して岡城と称したと伝わっています。
志賀家17代・志賀太郎親次(しが たろう ちかつぐ)の時代、精鋭35,000人の大軍で岡城を包囲した島津軍に対して、岡城に立て籠もった兵はわずか1,000人。
岡城側は城兵のみでこれを撃退し、全国に難攻不落の堅城として岡城の名を知らしめます。
また、その功績により豊臣秀吉より天正15年(1587)正月3日付の褒状を受けています。
文禄3年(1594)に播磨国の三木城より入った中川秀成(なかがわ ひでしげ)は城の改修に着手。
7年もの歳月を費やして志賀氏時代の約2倍規模の城域にしました。
岡城は、城の形態もまた、珍しい例です。
戦国期の山城の面影を残しつつ、現在に残る高石垣を多用した近世城郭に受け継がれて完成しています。
久住連山に囲まれた断崖に苔むした高石垣のみを残す景観は、まさに古城と呼ぶにふさわしいもの。
ちなみに高石垣は、有名な穴太(あのう)衆の手になります。
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岡城へは1999年9月3日に登城しました。
天守などの建築物遺構はありませんが、日本屈指のそれは見事な高石垣が残る山城です。
難攻不落の堅城と称えられている理由が、よくわかりますよ。
ほんと凄い高さと角度の石垣ですよね。
岡城は、白滝川と稲葉川の浸食によって四方が断崖となった標高325m、比高95mの天神山の丘陵上に築かれた、天険要害の山城です。
城の城郭は、ほぼ東西に延びる台地上に展開されています。
山城的殿舎(廟所 右端)、平山城的殿舎(本丸、二の丸、三の丸)、平城的殿舎(西の丸 左)で構成されており、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城と言えるでしょう。
城域の中央部には石垣に囲まれた長方形の本丸、その一段下に二の丸、三の丸からなる中枢部(連郭式縄張り)があります。
そして西側には広大な西の丸が配され、東側には藩祖祖先を祀る御廟所が置かれました。
本丸の東西には東仕切門、西仕切門が設けられて防備を固めています。
本丸には天守は建造されず、代わりに御三階櫓が築かれていたようです。
大手門を上がって来ると左側が西の丸で、西の丸御殿がありました。
大手道の緩い石段の崖側(写真右)に石塀を設けていて、その頂上部に「かまぼこ石」という扇型の石が置かれています。
九州南部に見られる特徴的な石垣ですよ。
しかし残念ながら、岡城の建築物は明治6年(1873)の廃城令の後すべて取り壊されてしまいました。
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滝廉太郎(1879~1903)は、少年時代を竹田で過ごしました。
荒れ果てた岡城址に登って遊んだ印象が深かったとされ、岡城をモデルに作曲、発表したのが中学校唱歌「荒城の月」です。
明治34年(1901)に作成されました。
高台にある本丸跡からは、四方に九州連山を望む素晴らしい眺望だけでなく、春の桜、秋の紅葉は見応えがあります。
岡城は、平成2年(1990)には、「岡城公園」として「日本さくら名所100選」にも選定されています。
昭和62年(1987)年には築城800年祭りの記念行事として20日間限定で模擬天守と大手門が復元されました。
私がタクシーで登城したとき、運転手さんがそのことについて、「せっかく造ったのに壊してしまうなんて、勿体ないことをする」と言って嘆いていたことを思い出します。
国の史跡に指定されているので、元通りの状態に戻すことを条件で復元が許可されたのでしょう。
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*岡城詳細
・アクセス:大分道大分ICよりR442、R57経由、竹田方面へ1時間
・営業時間:9時~17時
・休業日:年中無休
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【参考文献】
平井 聖監修『8 九州・沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる 日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行) 岡城パンフレット他
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