109回目になりました!
今回は愛知県の小牧山城といきましょう。
小牧山(こまきやま)城は、織田信長が尾張を統一したあと、次に美濃を制圧するための拠点として築いた平山城です。
その後、小牧・長久手の戦いでは、徳川家康が廃城となっていた小牧山城に本陣を構え、羽柴秀吉と一歩も引かず戦いました。
家康はこの戦いで天下に実力を示し、秀吉は家康の力を認めざるをえなくなりました。
小牧山城は、「続日本100名城」(第149番)に選定、国の史跡にも指定されています。
私はは1998年6月2日に登城しました。
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永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元(よしもと)を破った織田信長は、次に美濃の斎藤氏攻略に狙いを定めます。
標高約85mの小牧山の周辺には丘陵がなく、平野全体を見渡せるためですね。
小牧山城の築城は永禄6年(1563)のことです。
小牧山城は、織田信長が本格的に自分の居城として造った初めての城といえるでしょう。
山頂に本丸を置いて多くの曲輪を設置、周囲に二重の土塁を築き、その間を堀とします。
小牧山全体を城域とした堅固な城郭でした。
従来は、美濃攻めのための一時的な城と考えられていたようですね。
しかし近年の発掘調査により、主郭の四方は石で囲まれた本格的な城郭だったことが分かってきました。
『武功夜話』という本によると、二階造りの大入母屋の上に望楼を載せた建物が山上に建てられたとあります。
つまり「天守」が建造されていたと考えられますよね。
本城を清州城から小牧山城に移した信長は、美濃への攻撃を繰り返し行います。
永禄10年に、ついに美濃稲葉山城を落城成功。
信長は、稲葉山城を岐阜城と改め入城したため、小牧山城は廃城となりました。
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この縄張図を見ると、安土城によく似ていることに気づきます。
小牧山と安土山はいずれも独立した小山で、大手口から真っ直ぐ登り、周囲にいくつもの曲輪を置き、中腹から右に曲がって本丸に向かっていました。
千田嘉博氏の研究によると、小牧山城の時代には家臣たちの全部を城下に住まわせるまでには至っていないということなので、安土城のように大手道の周囲にはまだ家臣の館はなかったかもしれません。
しかし、ひょっとしたら住んでいたかもしれないと思うとドキドキしますよね。
それにしても、よく似ています。
信長は、安土城築城の時、小牧山城を思い出して造ったのかもしれないとさえ思います。
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小牧山城天守は、昭和43年(1968)に、小牧市歴史館として建造されました。
三重四階建ての望楼型独立式天守の形です。
唐破風の入口、一重目と三重目に廻り縁を置き、唐破風の入口の真上に小振りの千鳥破風、一重目の縁の下と二重目、三重目に格子窓を置いた、現代風の天守ですね。
小牧山城が廃城となって17年後の天正12年(1584)に、羽柴秀吉と徳川家康が初めて戦った小牧・長久手の戦いが勃発しました。
現在遺構として残っている土塁などはこの時代のものと考えられています。
その戦いの後、小牧山城は再び廃城となりました。
しかし江戸時代を通じて尾張藩が入山を禁じていたため、小牧山城の遺構は良好に保存され、近年の発掘調査に大いに役立っています。
高い土塁は防御のためだけでなく、空堀のところに兵士が隠れていて、出陣したようです。
篠山城などの馬出と同じですね。
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山頂には小牧山歴史館(模擬天守)、山麓には小牧山城史跡情報館があります。
小牧山城史跡情報館には、近年の発掘調査で明らかになった石垣や城下町、小牧・長久手の戦いなどの歴史を、模型や映像を多く使って分かり易く紹介していますよ。
ぜひ訪問してみてくださいね。
*小牧山城詳細
・アクセス:名鉄小牧線・小牧駅から徒歩25分 / 名鉄小牧線・小牧駅から名鉄バス・小牧巡回バスに乗り「小牧市役所前」バス停下車、徒歩10分
・営業時間:小牧山歴史館 9:00〜16:30(最終入館16:15)
・休業日:小牧山歴史館 第3木曜日(祝祭日の場合は翌平日) / 年末年始(12月29日〜1月3日)
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【参考文献】
平井 聖監修『城 4 東海 天下人への夢馳せる群雄の城』(毎日新聞社 平成8年12月25日発行)、公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、香川元太郎著、西ヶ谷恭弘監修『日本の城 [古代~戦国]編 知られざる築城の歴史と構造』(世界文化社 1996年11月10日発行)、『城 其ノ一』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)他
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