94回目になりました。
今回は、愛知県にある清洲城です。
清洲城は「日本100名城」、そして「続日本100名城」のどちらにも選定されていません。
しかし、若き織田信長が尾張を統一し、天下統一へと歩み出した城、つまり出世城です。
また信長亡き後、信長に代わって天下を取るのは誰かを知らしめた「清洲会議」で有名な平城です。
というわけで、紹介することにしました。
そうそう、新幹線の中から、近くに天守が見える城としても有名ですよね。
別称は清須(きよす)城。
清洲城へは1997年6月6日に初登城しています。
2022年4月3日に、雨の清洲城を再訪しました。
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五条川西岸沿いの清洲に初めて城が築かれたのは、応永12年(1405)頃と言われています。
室町幕府の管領で尾張、遠江、越前三国の守護職を務めた斯波義重(しば よししげ)によってであると伝わっていますが、これは定かではありません。
斯波氏は、文明8年(1476)になると守護所を下津(おりづ 現在の稲沢市)から清洲に移して守護代を置いていました。
将軍の上洛や参勤交代の大名などが通った重要な脇往還の美濃路を通り、中山道にも接続する交通の要衝でした。
やがて尾張の実権が斯波氏から守護代の織田家に移り、尾張は二つの織田家が領有します。
守護代の織田家同士が互いに争っているうちに、織田氏傍流の織田信長は力を蓄えていったのですね。
弘治元年(1555)に、信長は守護代の織田信友(のぶとも)を攻めて清洲城を奪いました。
そして守護斯波義銀(よしかね)を追放。
永禄2年(1559)に、信長は岩倉城の織田信賢(のぶかた)を滅ぼします。
翌3年には清洲城から出陣し、桶狭間の戦いで今川義元を破って尾張を統一。
信長は清洲城を大改造、天下統一への第一歩を踏み出し、8年間居城とします。
しかし、次の美濃攻めなどの備えのために小牧山に新城を築城。
永禄6年(1563)に完成した小牧山城に、信長は居城を移します。
清洲城は、長男の信忠(のぶただ)が継ぎますが、信長と信忠が本能寺の変で亡くなると、次男の信雄(のぶかつ)が城主となりました。
信雄は、秀吉に対抗するために天正14年(1586)から清洲城の大改修を始め、天守や小天守などを築くとともに濠も三重にして強大な城郭にしたといわれています。
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清洲は、名古屋城が築城されるまでの約130年の間、尾張随一の城下町として繁栄します。
城下には6万人もの人々がいて賑わっていました。
京から東では最大の都市だったとのことです。
その後、城主は豊臣秀次から次々に代わって徳川の時代となり、家康の子・松平忠吉(ただよし)などが清洲城に入城します。
天下を取った徳川家康は、慶長15年(1610)に名古屋城の築城を命じました。
それとともに、6万人ともいわれた城下の住民をはじめ建物など、町の機能すべてが名古屋の地に移っていきました。
いわゆる「清洲越」です。
清洲城は廃城となり、取り壊した清洲城の資材だけでなく石垣なども名古屋城築城のために搬出されたようです。
清洲は、こうして歴史から姿を消しました。
城跡は現在清洲公園となり、わずかに土塁の一部が残っています。
昔から、この櫓は清洲城の天守を移築したものといわれていました。
昭和37年から39年にかけて、老巧化したこの櫓の解体修理を実施。
解体すると、多くのヒノキ材に現存の櫓に合致しないほぞ穴や符丁が発見。
また、床や根太材には高欄などを転用したものが含まれていることも分かりました。
清洲櫓は、ほぼ間違いなく清洲城天守だったことが判明したのです。
平成元年(1989)に、五条川の対岸にある清洲文化公園に「清洲城天主閣」(清洲城のパンフレットの表記による)として建造された模擬天守です。
書院御殿(芸能文化館 左の建物)、清洲城広場(天守の裏)などを併設した地域のシンボル、平成の城として建造されました。
模擬天守は、二重の入母屋造りの上に一重の望楼部を載せ、一重目に千鳥破風の出窓を付け、朱塗りの廻り縁と華頭窓を付けた三重四階です。
入母屋の大屋根に切妻破風の格子窓が置かれています。
内部は清須城城下の都市機能の全貌を知る「清須城と城下町」や、武将たちの暮らしや清須との関わりなどが展示されていますよ。
赤い大手橋を渡った所が清洲城古城跡公園で、小さい建物は「清洲ふるさとのやかた」です。
地域物産展示と土産物販売所ですが、無料で休憩もできます。
線路の向かって左側が清洲公園となっています。
五条川の河川事業にともなう発掘調査で発見された、清洲城本丸の石で復元された石垣。
軟弱地盤に備え不等に沈まないように、石垣の下に枕木と胴木が梯子状に組まれた梯子胴木という工法で築かれた野面積みの石垣です。
清洲古城跡公園にある社。
幕末に建立された社で信長公を祀っています。
毎年6月2日の信長公の命日に、この社の前で「織田信長公顕彰祭」が執り行われているとのことです。
信長が得意とした舞い「敦盛」の一節が刻まれている石碑です。
「人間五十年、下天(げてん)の内を比(くら)ぶれば、夢幻の如くなり ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか」
*清洲城詳細
・住所:清須市朝日城屋敷1番地1
・アクセス:名鉄:名古屋本線新清洲駅から徒歩15分/JR:東海道本線清洲駅から徒歩15分
・営業時間:午前9時~午後4時30分
・休業日:月曜日〈休日の場合は直後の平日〉、12月29日から31日(桜の花見期間・清洲城信長まつり期間は開館)
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【参考文献】
平井 聖監修『城 4 東海 天下人への夢馳せる群雄の城』(毎日新聞社 平成8年12月25日発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ一』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、全国城郭管理者協議会監修『復元イラストと古絵図で見る日本の名城』(碧水社 1995年4月18日第一刷発行)、「清洲城」パンフレット、「清須市観光ルートマップ」(清須市観光協会)他
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