日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

気ままにぶらっと城跡へ⑥大阪城へ行ってきた

f:id:sekimeitiko:20211009111416p:plain

西の丸から見た天守 (写真は筆者撮影)

気ままにぶらっと、6回目ですね。

今回は地元大阪城です!

現在、大阪城の大手門「多聞櫓」と「千貫櫓」が今特別公開中(2021年7月3日~11月

28日)です。

大阪国際がんセンターに定期診察で行ったとき、大阪メトロ谷町4丁目の駅近くにおかれている大坂城のパンフレットで知ったので、9月26日に行ってきました。

この二つの櫓は数年前に公開されたときも入ったことがあるのですが、ブログの原稿を書いているといろいろと気づくこともあるため再訪することにしました。

小雨が降ってきて、写真は少し暗くなっています。

さらにいくぶんブレもありますが、お許しください。

f:id:sekimeitiko:20211009111449p:plain

特別公開のポスター

現在の大阪城址は、徳川大坂城です。

天正11年(1583)に築城が開始された豊臣大坂城は、五重八階、黒漆塗りの下見板張り(黒い城)と金箔瓦、金の飾り金具をつけた豪華絢爛の望楼型天守でした。

秀吉の力を世の中に誇示する、とても派手なお城だったようです。

しかし、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で炎上してしまいます。

徳川幕府は、豊臣大坂城の上に盛土をして新たな縄張りで高石垣を積み直し、秀吉の天守を上回る大規模な白漆喰総塗籠(白い城)の徳川大坂城天守を築城しました。

(その天守も寛文5年(1665)に落雷により焼失、以後天守は再建されていません)

▼関連記事

f:id:sekimeitiko:20211009112735p:plain

千貫櫓(左)と城門のある渡櫓(右)

上の写真は、土橋の大手口のすぐ北側にある千貫櫓です。

外濠西の内側の石垣上に建てられている二重二階の隅櫓で、徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)に建造されました。

二の丸(西の丸)に建つ乾(いぬい)櫓と同じく創建以来一度も焼失していない大坂城最古の建物です。

二つの櫓は重要文化財に指定されています。

明治以後残っていた大坂城の多くの建物は昭和20年の大阪空襲で焼失していますが、これらは奇跡的に残った建造物ですね。

西外濠に面する西面、南面には石落としがそれぞれ一カ所ずつ備え、窓や銃眼も同じく西・南面に多く開けられています。

大手口から城内へ攻め入ろうとする敵を横から攻撃(横矢掛り)できる、防衛上重要な櫓です。

 

千貫櫓という名前は、織田信長がここにあった大坂(石山)本願寺を攻撃したときまで遡ります。

攻撃時に隅櫓からの横矢に悩まされた兵士たちの間で、「千貫文出しても奪いたい櫓だ」とささやかれたことに由来するそうです。

f:id:sekimeitiko:20211009113145p:plain

大手門(高麗門)

f:id:sekimeitiko:20211009113430p:plain

大手門を入って桝形側からみた(内側から外側をみた)、高麗門の大手門。

高麗門は門の扉を雨から守るために屋根が作られている形の門です。

左の石垣の上の石(笠石かさいし)に鉄砲狭間が見えますね。

f:id:sekimeitiko:20211009113549p:plain

これは石垣に造られた銃眼と塀の鉄砲狭間です。

矢狭間はありません。

このときにはもう鉄砲の時代となっていたのでしょう。

ここまで石を加工した鉄砲狭間を作ることが出来るのは徳川だからだと思います。

他の城ではあまり見たことはありません。

 

徳川大坂城の縄張りは藤堂高虎、作事は小堀遠州が担当していました。

f:id:sekimeitiko:20211009113630p:plain

説明パネルより

▼関連記事

時期的に当然と言えば当然ですが、私はその事実を知らなかったので、このパネルを見ることが出来て本当に嬉しかったです。

行くたびに新しく知ることが出来るのは、こういった説明パネルのお陰です。

 

そして桝形をうまく説明しているパネルを見つけました。

次の写真とあわせて見てください。

大坂城の桝形は巨大な内桝形です。

f:id:sekimeitiko:20211009113819p:plain

展示パネルより

f:id:sekimeitiko:20211009113843p:plain

展示パネルより

「多聞櫓」とは石垣の上に造られた長屋状の建物のことを言います。

戦後時代の武将、松永久秀が奈良の多聞城であみだしたことにちなむ名称だそうです。

f:id:sekimeitiko:20211009113952p:plain

大手門を入って 左が渡櫓(下が城門)、右が続櫓(多聞櫓)

「多聞」は建物の構造の呼び名ですね。

大坂城には大手口だけでなく、京橋口、玉造口でも同じように多聞櫓で桝形を構成していました。

 

f:id:sekimeitiko:20211009114023p:plain

見えにくいですが、石垣との境目のところに見える小さな穴は続櫓にある鉄砲狭間です。

f:id:sekimeitiko:20211009114047p:plain

きれいに加工された続櫓内にある鉄砲狭間

f:id:sekimeitiko:20211009114140p:plain

上の写真は続櫓の内部です。

武者走り(廊下)右側に部屋が6室あり、多数の兵士や武器・武具を蓄えることができます。

桝形の内側に向かって多くの格子窓や鉄砲狭間が開けられていて、大手門から桝形に侵入してきた敵を一斉に迎え撃てます。

f:id:sekimeitiko:20211009114217p:plain

続櫓の格子窓から大手門から入ってくる敵を正面から攻撃可能。

門を突破したと思った途端、狙い撃ちされるのですね。

f:id:sekimeitiko:20211009114253p:plain

渡櫓の格子窓からの写真です。

ここから桝形に入ってきた敵を攻撃できますね。

今は樹木で隠れるところが有りますが、当時は樹木もなく、どこにも隠れることは出来ません。

門の屋根の下に入れば、真上から槍が落ちてきます。

f:id:sekimeitiko:20211009114349p:plain

渡櫓の槍落とし

渡櫓の大門の扉を突破しようとする敵を上から攻撃する「槍落とし」。

門の上にあるこういった装置は「石落とし」と言わないことを初めて知りました。

ちなみに形は石落としとまったく同じです。

f:id:sekimeitiko:20211009114511p:plain

f:id:sekimeitiko:20211009114531p:plain

千貫櫓入り口の石段と土塀

f:id:sekimeitiko:20211009114557p:plain

f:id:sekimeitiko:20211009114827p:plain

土橋と大手門、左が渡櫓

大手門への土橋を千貫櫓から見た写真です。

門へ侵入してくる敵に対して横から攻撃出来ますね。

敵は身を隠すことが出来ず、正面と横からの攻撃に晒されることになります。

f:id:sekimeitiko:20211009114933p:plain

千貫櫓から鉄砲で攻撃する城兵。今回は鉄砲討ちの体験が出来ます。

f:id:sekimeitiko:20211009115002p:plain

乾櫓

上の写真は、二の丸(西の丸)の西北隅にある乾櫓です。

元和6年造営の総二階造り(一階と二階の床面積が同じ)、平面Ⅼ字型の大変珍しい櫓ですよ。

千貫櫓とともに城内最古の建造物で、重要文化財に指定されています。

f:id:sekimeitiko:20211009115114p:plain

テラス席からみた大阪城天守

昭和6年(1931)に建造した、旧陸軍第四師団司令部庁舎です。

これは豊臣大坂城を再建するため大阪市民から集めた寄付金の半分を、陸軍が横取りして作られました。

戦後は大阪市立歴史博物館として使用されていましたが、数年前にリニューアルして「ミライザ大阪城」としてオープンしています。

1階には土産物屋さんやカフェ、たこ焼き、麺類など気楽に立ち寄れるショップがあり、2階と3階は結婚式披露宴用のレストランがあります。

1階の土産物屋さん以外は、コロナ禍の緊急事態宣言中のためか閉店していました。

披露宴は2組入っていて、反対側のテラス席で撮影していました。

私は屋上レストランのテラス席で昼食。

上の写真はそのときのものです。

緊急事態宣言中と小雨のためか、昼食時にもかかわらず空いていましたよ。

大阪城弁当」を注文し、ノンアルコールビール大阪城天守を見ながらゆっくりいただきました。

ぶらっと気ままに行った久し振りの大阪城

天守には上がらなかったけれど、十分楽しみました。

みなさんも、ぜひ。

▼PR

一休高級ホテル・旅館が最大60%OFF!

【じゃらん】国内25,000軒の宿をネットで予約OK!2%ポイント還元!  

 

大阪城詳細や歴史などは以下の記事にまとめています。

 

*こちらもどうぞ

【参考文献】

大阪城の櫓 特別公開」パンフレット、大阪城パンフレット、他

▼PR

 

▼PR