日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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気ままにぶらっと城跡へ⑮津城へ行ってきた

三重隅櫓

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7月24日(2022年)に「青春18きっぷ」を使って、大好きな築城の名人・藤堂高虎が大修築した津城に、気ままにぶらっと行ってきました。

初めて津城を攻城したのは1998年8月18日でした。

その日は、前回の伊勢亀山城を先ず探訪し、続いて津城、そして松坂城三重県の三城址を探訪したものです。

懐かしい思い出!!

津城は「続日本100名城」第152番に指定されています。

別称は安濃津(あのつ)です。

藤堂高虎城址にあった津城説明板より)

津城は、伊勢平野のほぼ中央、安濃(あの)川と岩田川にはさまれた三角州に築かれた平城。

古くは安濃津(あのつ)と呼ばれていた地で、政治・軍事・交通上の要衝です。

永禄年間(1558~69)に細野藤敦(ふじあつ)が築いた小さな砦のような城が、津城の起源ともいわれています。

永禄11年(1568)に細野氏は織田信長に攻められ、信長の弟の信包(のぶかね)を養子として迎えることで和睦します。

信包は本格的な城郭として石垣を築き、濠を掘って五重の天守を築きます。

城は天正8年(1580)に完成しました。

文禄3年(1594)信包は羽柴秀吉によって丹波柏原(たんばかいばら)に減封され、代わって翌年には豊臣秀吉の家臣・富田知信(とものぶ)が5万石で入城。

関ヶ原の戦いでは、子の信高(のぶたか)は東軍として戦い、毛利秀元の3万余りの西軍勢に取り囲まれながらも奮戦しました。

しかしついに天守は焼失し津城は開城、信高は高野山に入ります。

関ヶ原の戦い後、信高は津城での西軍との戦いの軍功により2万石加増のうえ津城に返り咲きますが、慶長13年(1608)伊予宇和島に12万石で転封します。

かわって藤堂高虎今治城から、伊勢のほか伊賀・伊予を合わせて22万石で入封してきました。

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藤堂高虎公像

築城の名手である藤堂高虎は、来るべき大坂豊臣方との戦いに備え、有事用に伊賀上野城の大改修の取り組みます。

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そして同時に、慶長16年からは平素の居城として津城の大修築に着手したのです。

本丸を北に拡張し多聞櫓を巡らせて、三重櫓2基、二重櫓3基を設置、天守台を作り直します。

しかし台だけを作り、天守は建造しませんでした。

三重櫓の戍亥(いぬい)櫓が天守の代用だったようです。

丑寅櫓(手前)と戍亥櫓(津城説明板より)

天守台石垣 夏草が茂って石垣の姿がわからない

天守台石垣

また、本丸に突き出した形で東の丸、西の丸の小さな曲輪を置いて土橋で連結し、その周囲を内濠で囲みます。

曲輪はシンプルな方形でした。

本丸の周囲を二の丸が取り巻き、さらに外濠と三の丸が囲む輪郭式の縄張りです。

まさに藤堂高虎の縄張りの城というべき城郭です。

津城説明板より

津城説明板より

同時に城下町の整備を行い、町はずれを通っていた伊勢街道を城下町に引き入れます。

このことによって、津は城下町としてだけでなく、伊勢神宮参詣の宿場町としても賑わっていきます。

高虎によるこのような城下町の整備によって、城下町津は繫栄し「伊勢は津でもつ」と謳われるようになりました。

高虎は、大坂の陣の軍功により加増され32万3000石の大大名となり、津城は藤堂家12代の居城として存続し、明治を迎えました。

藤堂家の領地である伊勢と伊賀は、豊臣家が健在の時代は大坂方への防御の地、豊臣家滅亡後は紀州徳川家への押さえの地としての役割を担っていたと言われるほど、徳川将軍家からは信頼されていました。

高虎が伊賀上野城を改修した時と同じ考え方ですね。

明治18年(1885)まで櫓や門が残っていましたが、その後競売されてなくなりました。

模擬三重隅櫓

明治になって取り壊された三重櫓が、昭和33年(1958)に戦後復興のシンボルとして、東鉄門桝形(ひがしくろがねもんますがた)の多聞櫓跡に建てられました。

たぶん天守の代用だった戍亥三重櫓の復元のつもりでしょう。

しかし残念ながら、実物とは違うえらく華美な外見となっています。

実際にあったものは前掲の古写真で分かるように、城郭の北側を守っていた丑寅三重櫓ともども層塔型の破風などの飾りの全くない、高虎好みのシンプルな櫓でした。

再建された三重櫓には、唐破風、千鳥破風、出格子窓、屋根には鯱が付けられ、いかにも三重の天守といった姿になっていますよね。

破風ひとつないシンプルな層塔型の元の外観での再建では、「こんなものを造って」といって文句を言う人はいても、誰も喜ぶ人がいないからでしょうね。

元の櫓の姿とは関係なく設計された模擬櫓です

犬走りがある石垣

最大幅は約80mもある広い内濠と、特徴的な犬走りのある高虎の直線的な高石垣。

犬走りは、地盤の弱いところに石垣を築くときに使われる工法で、石垣の裾を保護する役割があります。

高虎が築いた篠山城などにもみられ、高虎の好きな工法ですね。

幅の広い水濠と北多聞櫓石垣 右の出っ張った石垣は戍亥三重櫓跡石垣

高虎が改修する前の本丸南東隅の隅石(算木積み)と、後から右側に野面積みの石垣を継ぎ足したことがよくわかります。

入徳門

入徳門(にゅうとくもん)は幕末期の文政3年(1820)に10代藩主藤堂高兌(たかさわ)が開設した藩校・有造館(ゆうぞうかん)の正門です。

有造館は明治になって廃校。

その後第一小学校、師範学校、津中学校校舎となりました。

入徳門が朱塗りの門だったので、赤門学校と呼ばれていたということです。

赤門学校といえば東京大。

昭和になって西の丸跡へ移築されました。

唯一の遺構です。

高山神社は、藤堂高虎を祭神として、明治10年(1877)に現在の津偕楽公園に建立されましたが、同34年に津城址内に移されました。

神社の名前は、天海僧正が名づけた高虎の戒名「寒松院殿前伊州林道賢高山権大僧都」から名付けられています。

日本100名城のスタンプは高山神社社務所に置いてありますよ。

拝殿に奉納された日本酒「高虎」の菰樽

時間が無くて日本酒「高虎」を買えなかったことが何としても残念でした。

藤堂高虎遺訓の碑

高山公(藤堂高虎)の遺訓

「可為士者常之覚悟之事/寝屋を出るより/其日を死番と可心得/かように覚

悟極るゆへに/物に動する事なし/是可為本意」

高虎の毎日の覚悟がよく言い表されています。

城址の本丸は現在お城公園となっています。

随所に写真にあるように丁寧な説明文が設置され、城址が良く分かるように工夫された城址となっています。

しかし、本丸の中央部分以外の石垣の周辺には鬱蒼と木が茂っていますし、夏草が茫々と生えていました。

もっと樹木も整理し、夏草や雑草を刈って石垣などがよくわかるようにすれば、高虎が築いた城郭の姿が十分に楽しめるとても良いお城公園なのになあ!と残念でした…。

大変でしょうけれど、せっかくなのできちんと管理をしてほしいところです。

西の丸には「日本庭園」と書かれた所がありますが、ここも全く手入れがされていませんし、これが日本庭園かと驚くだけです。

整備しないのであれば、「日本庭園」と表記し案内板を設置しない方が良いと思うんですけど……。

城跡が素晴らしいだけに、少々残念な箇所がある場所でした。

 

(写真は筆者撮影)

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*津城詳細

・住所:三重県津市丸之内本丸

・アクセス:近鉄津新町駅から徒歩10分

・営業時間:24時間

・休業日:年中無休

 

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【参考文献】

平井 聖監『城 4 東海 天下人への夢馳せる群雄の城』(毎日新聞社 平成8年12月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第1刷発行)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)『城 其ノ一』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、他

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