元禄の浮かれた世を驚かせた、播州赤穂浪士の討ち入り。
赤穂浪士の故郷にたつ赤穂城は平城で、千種(ちぐさ)川の河口の三角州の上に海を背にして築かれた要害でした。
別称は仮屋・仮里屋(かりや)城です。
「日本100名城」(第60番)に選定されています。
昭和30年(1955)、古い写真をもとにして、大手門跡に高麗門と二重二階の隅櫓が再建されました。
隅櫓の下には打込接ぎの石垣。
赤穂城と言えば、上の写真のこの姿です。
赤穂城は、別称が示しているように、戦国末期に宇喜多氏の仮陣屋から始まっています。
近世城郭としての形になったのは関ケ原の戦いの後池田氏が治め、その後藩主となった浅野氏の時代の築城からです。
正保2年(1645)に常陸(ひたち)国笠間城主の浅野内匠頭長直(あさの たくみのかみ ながなお)が53,000石で入封し、幕府の許可を得て城の建造に取り掛かります。
13年かけて寛文元年(1661)に本格的な城郭を完成させました。
浅野長直は、入封時に新たに加増された土地を新田と塩田に開拓し、その収入を築城費用に充てたと言われています。
赤穂城は地図をみると良くわかりますが、濠に海水を引き入れた水(海)城です。
備前・播磨の制海権を確保するために築城されたことがよくわかります。
浅野氏は元禄14年(1701)長直の孫の内匠頭長矩(ながのり)が江戸城松の廊下で有名な刃傷事件を起こしてお家断絶。
その後は永井氏を経て森氏2万石の居城となり明治を迎えます。
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私が初めて赤穂城を探訪した1998年8月5日当時は、この三の丸大手門と隅櫓、三の丸には大石内蔵助の旧邸の長屋門と大石神社ぐらいしかなかったのですね。
しかも城址敷地内には民家が数軒あり、一般の方が住んでおられました。
その後民家が移転したので発掘調査が開始され、本丸だけでなく二の丸、三の丸も整備が進んでいます。
というわけで、私も2021年8月20日に新しい赤穂城の姿を探訪してきました。
この大石内蔵助像は、昭和58年(1983)に赤穂ライオンズクラブの認証20周年を記念して建立されました。
作者は二科会審査員の高橋忠雄氏です。
吉良邸討ち入りの装束をつけ采配を大きく振り上げています。
三の丸大手門の高麗門を入ると、正面と左・右の多聞櫓石垣が復元されており、桝形が分かるようになっています。以前とは異なって、桝形が築城時の姿に戻されていました。
桝形を抜けて左に行くと正面に、平成11年(1999)に復元された近藤源八宅跡長屋門があります。
大石邸は享保14年(1729)に焼失しましたが、庭園とこの長屋門が昔のまま残っています。
とても立派な庭ですよ。
赤穂城は兵法や軍学的配慮を駆使した理想的な城郭と言われています。
しかし実際の戦闘は経験していないので、本当にそうなのかは分かりません。
縄張りは、近藤正純(まさずみ)が行い、途中からは山鹿素行(やまが そこう)が二の丸虎口を改造したそうです。
・近藤正純・・・甲州流小幡(おばた)軍学を学んだ藩の家老で軍学師範
本丸は五稜郭を思わすような形です。
横矢掛りがかけられるように隅部が突き出、石垣はゆるいカーブを描いています。
本丸を二の丸が同心円状に囲み(輪郭式)、二の丸の正面に三の丸が張り出した梯郭式で、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の縄張りです。
本丸を内濠が囲み、二の丸の南半分を海が囲み、三の丸の西側が海、陸地側に外濠が囲んでいる堅城の海城です。
下の写真は、平成10年から13年度にかけて全面発掘調査が行われ、見つかった池泉遺構を復元した二の丸庭園です。
城郭内に造営された大名庭園として、また発掘庭園として貴重なものだということで、大池泉を含む本丸庭園とともに平成14年(2002)に国の名勝に指定されました。
赤穂城はまだまだ整備が進められているので、やがて昔の姿が蘇るでしょう。
上の写真で見るとよくわかりますが、本丸門はかなり高い防御力を持っています。
本丸門への道は少し右に曲がっており、門の正面からだけでなく向かって左横からも敵を攻撃しやすくしています。
門の前に来た敵に対しては左右から横矢が掛かるように(攻撃できるように)なっているのですね。
本丸門を突破して本丸に入った敵は桝形のなかで足止めされ、三方から一斉に攻撃されます。
かといって退却しようにも高麗門が小さいため時間がかかり、その間にどんどん殺されていくのです。
本当によく考えられた本丸門前の防御です。
平成8年(1996)には、土塀とともに本丸の表玄関となる本丸門が復元されました。
一の門である奥の渡櫓門と二の門(手前の高麗門)を備えた典型的な桝形門です。
高麗門を入ると、斜め前に櫓門があり内桝形を形成しています。
大変防御力の強い本丸門です。
土塀には雁木(石段)がつくられていますよ。
これは本丸入口を防御するために作られた、攻撃用の狭間へすぐ行けるようにするためですね。
五重の層塔型天守の築城が計画され、約9.5mもの高さがある天守台が造られましたが、結局天守は建造されませんでした。
浅野家時代には厩口門、森家時代には台所門と呼ばれていました。
ここは本丸跡に県立の赤穂高校があった時代(昭和3年から昭和58年まで)には通用門として改変されていましたが、平成13年(2001)に門、土橋、土塀および石垣が復元されています。
内濠に廻らせた本丸の石垣は大部分が打込接ぎ、さらに屈曲を持つ甲州流軍学による横矢掛りが随所に施されております。
軍学を実践した城郭の貴重な遺構です。
刎橋門は本丸の裏口非常用の小門で、外に向かって刎橋が二の丸へ掛けられていました。
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赤穂歴代藩主や大石内蔵助など赤穂浪士四十七士を祀る大石神社。
大正元年(1912)三の丸に建立されました。
花岳寺は、正保2年に浅野長直が父・華岳院と母・台雲院の菩提寺として建立しました。
花岳寺の山門は城下町の西惣門を明治6年(1873)に移築したものです。
清水門跡を出て右にある建物が、赤穂市立歴史博物館です。
平成元年(1989)に建てられた白壁の土蔵風の建物で、整った見た目もよいですね。
2階に「赤穂の城と城下町」のテーマで赤穂城の模型や絵図が常設展示されています。
上の写真は赤穂駅近くのそばのお店です。
うどん好きで週2日はうどんを食べるわたしですが、十割そばの幟を見て入り、初めて十割そばを食べました。
滅多にそばは食べないのですが、とてもおいしかった!
一緒に食べた鱧の天ぷらも美味しかった!!
緊急事態宣言でビールが禁止されているので、ノンアルコールビールで我慢しました。
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江戸時代、元和元年(1615)の「一国一城令」「武家諸法度」以後は、新しく城を築くことが許可されることはほとんどありませんでした。
そのなかで、赤穂城は5万石の外様大名でありながら許可がおりた、特別な例と言えるでしょう。
許可が降りたわけには諸説あります。
いざ徳川家と秀吉恩顧の大名との戦いという時に備え、譜代大名である讃岐高松藩の松平氏(水戸徳川家出身)の高松からの上陸地を確保するためだったと言う説です。
また当時研究されていた新しい軍学理論による縄張りを、徳川幕府上層部が実際の城郭で試そうとしたのだろうという説もありますが、はっきりとはしていません。
この時期新しく築城が認められたのは、赤穂城、福山城、明石城、尼崎城、そして島原城の5つだけです。
徳川家が京都に行く時に宿泊所として築城した滋賀県の水口城もありますね。
福山城、明石城、尼崎城は譜代大名が幕府の命令を受け、西国の外様大名を抑えるために山陽道に築いた城です。
そして島原城が認められたわけは、キリシタン弾圧と九州外様大名の抑えとして松倉重政が入封しているからだと思います。
そう考えるといかに赤穂城が特別だったか分かりますよね。
だから天守台は造ったものの天守は遠慮して建造しなかったと考えられます。
最後にちょっとしたお話。
茨城県の笠間城を探訪した時、城址に行く途中で大石内蔵助屋敷跡の石柱を発見し、何故こんなところに大石内蔵助の屋敷跡があるんだろうと、そのときは不思議に思いました。
あとでわかったのですが、浅野家に仕えていた大石内蔵助は赤穂城に入る前には笠間城に居たんですね。
それと同じく、歌手の坂本九さんの歌碑も発見してやっぱり不思議な感じに。
知りませんでしたが、坂本九さんも笠間に住んだことがあったんですね。
九さんは「笠間は自分の故郷」だと言っていたようです。
*赤穂城詳細
・アクセス:播州赤穂駅から徒歩で15分
・営業時間:9:00~16:30 本丸庭園
・休業日:年末年始(本丸のみ)
【参考文献】
平井 聖監『城 6 中国 甍きらめく西国の城塞』(毎日新聞社 平成8年11月25日発行)、日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、西ヶ谷恭弘編著『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年㋆15日初版発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ一』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1998年11月20日第1刷発行)、石井進監修『文化財探訪クラブ 城と城下町』(山川出版社 1999年7月25日1版1刷発行)、赤穂城パンフレット他
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