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広島城は、名古屋城、岡山城とともに日本三大平城に数えられているお城。
別称は鯉城(りじょう)、在間(ざいま)城、当麻(たいま)城です。
日本100名城(第73番)に選定されています。
戦国の知将・毛利元就(もとなり)の孫・輝元(てるもと)が、天正17年(1589)から慶長4年(1599)までの10年の歳月をかけて築城した城です。
瀬戸内の交通の要所、太田川河口の三角州箱島に「島普請」までして築城しました。
西国の雄・毛利輝元の112万石にふさわしい、格式のある巨大な平城です。
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毛利氏は応仁の乱の頃より所領を拡大し、大永3年(1523)に毛利元就が家督を継ぐと、急速に頭角を現し始めます。
大内氏(陶晴賢 すえ はるたか)や山陰の雄・尼子氏を攻め滅ぼし、中国の覇権を手にした元就は、広島の山間部にあった吉田郡山城では領国の経営には不便と感じていました。
そこで、広島湾に臨む太田川河口に築城を2度にわたり試みたのですね。
しかしこれは残念ながら、成功していません。
孫の輝元は豊臣秀吉の招きで上洛し、京都の聚楽第(じゅらくだい)や大坂城を見学しています。
その翌年の天正17年(1589)に、輝元は祖父・元就の遺志を継いで築城を開始させました。
河口で六流する太田川の中州に築城するため、一度周りの川をさらい、堤を築いて流れを堰き止め、土地を固める「島普請」と言われる基礎工事から始めなければいけませんでした。
当時、世間から笑いものにされたという話が伝わっています。
城の縄張りは、平城(ひらじろ)の聚楽第を模倣し、天守は大坂城のような巨大な五重の天守、本丸には広大な御殿を設けました。
広島城の築城によって毛利領内に初めて近世城郭が誕生し、織豊政権と比べて著しく立ち遅れていた築城技術が急速に進歩しました。
しかも驚くべきことに、広島城は聚楽第と大坂城の長所を巧みに吸収し、それらを超える名城となりました。
ちなみに輝元の築城技術は、関ヶ原の戦いで負け、広島を追放されたあと築城した萩城でも遺憾なく発揮されています。
こうして非常な苦心を伴った築城を続けながら、同19年に輝元はやっと入城します。
その後も増築や城下の整備に勢力を傾け、慶長4年(1599)に五重の天守、45基もの櫓を連ねた城郭が完成。
輝元は山陰・山陽の9カ国、現在の鳥取県の西側と岡山県の西側から下関までの広大な領土をもつ大大名でした。
広島城はそれにふさわしい壮大な城郭で、秀吉の大坂城を除けば、西日本最大の規模を誇るものだったのです。
しかし翌年の関ケ原の戦いで、元豊臣政権の五大老の一人であった輝元は西軍総大将として戦うも敗れ、周防国と長門国(現在のほぼ山口県)の2カ国へと追放されます。
代わって賤ケ岳の七本槍で有名になった福島正則(ふくしま まさのり)が関ケ原の軍功によって安芸・備後49万石で入城。
その正則も、洪水で破損した城の石垣を幕府からの許可が下りないうちに修理し、「武家諸法度」に違反したとして信州川中島へ改易されます。
元和5年(1619)、和歌山城から浅野長晟(ながあきら)が42万石で入城、以来12代続いて明治を迎えます。
幕末には長州征伐の本営となり、日清戦争時には大本営が置かれました。
広島城一帯は中国軍司令部ほかの軍用地として使われます。
しかし、せっかく残されていた国宝の天守や大手門などの遺構建築物は、昭和20年8月6日の原子爆弾によって、天守は倒壊し、大手門などは灰になってしまいました。
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私が広島城を訪れたのは、2001年6月3日です。
中央の濠に囲まれた四角形全体が本丸です。
木々がうっそうと茂っているところに広大な本丸御殿がありました。
手前の橋が架かっていて隅櫓や平櫓のあるところが二の丸。
手前左の駐車場が三の丸です。
築城当時は内濠の外側を三方(左右と手前)から包むように三の丸があり、三の丸も濠に囲まれていました。
城郭の西側の太田川と東側の京橋川が外濠の役目を果たし、各曲輪は河川を利用した水濠で隔てられています。
本丸と二の丸は総石垣で、三の丸と外郭は門と櫓部分以外は土造りでした。
慶長3年(1598)に輝元によって建造された広島城天守は、昭和6年(1931)に旧国宝に指定されていました。
しかし残念なことに、昭和20年の原爆により壊滅しています。
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現在の天守は昭和33年に鉄筋コンクリート造りで再建したもの。
外観は築城当時のものと変わらず、関ヶ原の戦い以前の桃山初期天守の姿を伝えていると言われています。
五重五階望楼型で、輝元築城時は2基の三重三階の小天守が渡櫓で連結された連結式(特に複連結式とも呼ばれる)天守でした。
二重目に大きな入母屋破風と比翼入母屋破風、三重目は大きな千鳥破風が置かれています。
均整の取れた美しい天守です。✨
四重目までが腰高の下見板張りですが、最上部の望楼は白壁、高欄廻縁と華灯窓で化粧しています。
二の丸は本丸を防御するために本丸前の水濠に造られた小さな曲輪で、本丸とは土橋で繋がっています。
二の丸というよりは馬出(うまだし)を大きくしたものと考えたほうが良いのかもしれません。
櫓門が表御門で右が平櫓、門の前の橋は三の丸と二の丸を結ぶ御門橋。
表御門を平櫓と土塀が横矢を掛け入口の守りを固めています。
表御門と平櫓は塗り壁の塀とともに平成6年(1994)に江戸時代の元の姿に木造で復元。
同時期に御門橋も外観が木造風に改修されました。
二の丸表御門は本丸に至る正門で、櫓部分の柱や長押(なげし)を白木のまま見せる古式な門。
木橋に面した門であったため、橋御門とも呼ばれています。
門の創建は毛利氏時代まで遡りますよ。
表御門に続く平櫓と多聞櫓で結ばれた太鼓櫓とで二の丸の南側を守っています。
縮景園は広島城の西、京橋川の畔の、かつて藩主別邸があったところに残る大名庭園です。
元和5年(1619)に入城した浅野長晟以来、歴代藩主が手を加えた名園で、中国の西湖を縮景したとも伝えられています。
濯纓池(たくえいち)という池を中心に、茶室や築山、中国風の橋が美しく配されています。
原爆で大きな被害を受けたのですが、その後復興されました。
しっかりと大名庭園の趣を取り戻していますね。
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広島城の公式サイトです。↓↓
城跡案内や歴史、開園時間などがのっていますので、訪問前にはチェックしてくださいね。
*広島城詳細
・アクセス:広島駅から路面電車で15分(「紙屋町東」電停下車)+徒歩で15分
・営業時間:3月~11月 9:00~18:00 入館は17:30まで/12月~2月 9:00~17:00 入館は16:30まで
・休業日:12月29日~12月31日 ※他に臨時休館あり
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【参考文献】
平井 聖監『城 6 中国 甍きらめく西国の城塞』(毎日新聞社 平成8年11月25日発行)、日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日初版発行)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年7月15日発行)、全国城郭管理者協議会監修『復元イラストと古地図で見る日本の名城』(碧水社 1995年4月18日発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)『城』(日本通信教育連盟)他
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