「城」としての多賀城を知っている人は余程の城マニアと言えるでしょう。
多賀城は、いにしえの歌枕、歴史のロマンを秘めた城として有名です。
多賀城も吉野ケ里遺跡と同じように、城らしい遺構はまったくありません。
従って前回の吉野ケ里と同じように、「城」の定義に従えば「城」と言えるということになります。
多賀城址に行けば、写真のように「多賀城趾」と記された石柱があるため、城址だと認識可能です。
しかし、周囲を見渡してもほぼ何もありません。
たとえば奈良市にある平城宮址や大阪市にある難波宮址と、同じような景色が見えるだけです。
前回と同じく『日本の城の基礎知識』の著者井上宗和氏の紹介をみてみましょう。
「大和朝の城(日本の城の類型的発達時代)」(p19)には、「王城」として難波宮や平城宮があり、「国府城」「西域城塞」「北辺城柵」があったと記述されています。(p19~31)
「西域城塞」は、大宰府を守っていた大野城(日本100名城第86番)や基肄(きい)城(続日本100名城第184番)、それから岡山県の鬼ノ城(日本100名城第69番)などです。
「北辺城柵」は後で紹介しますね。
ちなみに財団法人日本城郭協会は、多賀城を「日本100名城」(第7番)に選定しています。
日本100名城のなかでは、飛鳥時代に築かれた大野城と鬼ノ城に続き、奈良時代に築かれたとても古い城です。
別称は多賀柵(たがのき)。
私は、1998年9月24日に行きました。
※【城柵・柵】・・・蝦夷支配の東北の城のこと
こちらについては、以下の記事で紹介しています。
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多賀城は古代から塩釜の港をひかえた、陸奥国(むつのくに)の国府であり鎮守府(ちんじゅふ)です。
旧塩釜街道に通じた要衝の地に、大和政権によって造られました。
蝦夷(えみし=大和政権に従わない東北地方の人たち)討伐の軍事拠点でもありました。
井上氏のいう「国府城」です。
寺院建築を含めた壮大な計画のもとに築かれた、律令国家の行政と軍事の東北地方の拠点です。
『続日本紀』の記載で、養老6年(722)に1,000人を配して「鎮所、陸奥鎮所、多賀柵」を置いたとあるのが、多賀城の前身であると考えられています。
多賀城は、仙台の北東約10km、標高52mの丘陵地から4mの低地にまたがるように築かれていました。
外郭は、一辺約900mのほぼ四角形に近い形。
周囲を幅3m、高さ5mほどの築地土塀が巡らされていました。
外郭の大部分が、土を突き固めた上に屋根をかけた築地土塀です。
東側と西側では木柵になっているところもあったらしく、防御力はそれほどでもなかったようですね。
外郭の南門(正門)からまっすぐ北に進むと、ほぼ城内中央に約100m四方の築地土塀に囲まれた内郭・政庁がありました。
中央に正殿、左右に脇殿、東西の翼廊などを配する形で、九州の大宰府政庁と共通した形であったようです。
多賀城は、反乱による炎上や地震による倒壊など数回の災禍を経ながらも、10世紀後半まで東北経営の拠点・国府として存続したと言われています。
城内には掘立柱の建物と竪穴式住居がありました。
また、城外には東西南北を走る大路を軸として多くの住居跡が発掘されています。
これらの遺構や出土品から、多賀城は創建当初から「軍事施設というよりは政庁の機能の方が重視されていた」と考えられていますよ。
南門から城内に入ってすぐ右手に、宝形(ほうぎょう)造りの覆(おおい)堂があります。
その中に、壺の碑(つぼのいしぶみ)と呼ばれる多賀城碑が保存されています。
国の重要文化財に指定されている、高さ196cmの石碑ですね。
17世紀半ばごろに地中から出土したと伝えられ、日本三古碑(※)のひとつに数えられています。
天平宝字6年(762)に建立されたその碑には、神亀(しんき)元年(724)に多賀城が大野東人(おおのあずまびと)によって築城されたこと、そして、天平宝字6年に藤原恵美朝獦(ふじわらのえみあさかり)によって大改修されたことが書かれています。
此城は、神亀元年歳は甲子(きのえね)に次(やど)る、按察使(あぜち)兼鎮守将軍、従四位上・勲四等大野朝臣東人(おおの あそん あずまびと)の置く所也」
按察使は、地方政治を取り締まる上級役人のこと。
そして鎮守将軍とは、蝦夷(えみし※※)平定の最高軍司令部である鎮守府の長官のことです。
按察使と鎮守将軍の兼任者が在任する多賀城は、国府と鎮守府両方の性格を合わせてもっており、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれていた城でした。
神亀元年は大和政権が平城京に都を移して14年後ですが、蝦夷鎮圧、東北経営の前線基地として建造されたことがわかります。
江戸時代の元禄2年(1689)には、46歳の俳聖・松尾芭蕉は、歌枕の地を訪ねる「おくの細道」で、この多賀城を訪れています。
古くから歌枕に読み込まれた「壺の碑」を見つけ、「つぼの石ぶみは苔を穿(うがち)て文字幽也(かすかなり)」と「おくの細道」に書いています。
漂泊の詩人ともいわれた芭蕉は、「遠の朝廷」と呼ばれた多賀城址で、いにしえの栄華の歴史に想いを馳せたのでしょうか。
※日本三古碑:古代の石碑のうち、書道史上から極めて重要とされている碑(金石文)のことで、多賀城碑、群馬県の多胡碑(たごのひ)、栃木県の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)の三つ。
※※蝦夷:律令制時代に東北地方を中心に、大和政権に服属せず、言語・風俗の違う人々を区別して「えみし」と呼んでいました。
平安時代中期以後は「えぞ」と読むようになり、「えぞ」=アイヌと考えるようになったのは近世以降のことだそうです。
「万葉集」に多くの歌が載せられている有名な歌人・大伴家持(おおとものやかもち)も、按察使兼鎮守将軍として延歴元年(782)に多賀城に赴任しています。
当時としては高齢の65歳で辺境の多賀城に入城し、わずか4年で多賀城にて生涯を終えています。
これは、讒言(ざんげん:事実を偽って人を悪く言うこと)によって大宰府に左遷された菅原道真(すがわらみちざね)を思い出しますね。
延歴21年(802)に、東北を平定した征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が胆沢城(いさわじょう= 胆沢柵)築き、多賀から鎮守府を移します。
【寄り道】
征夷大将軍は、奈良時代末期に東北の蝦夷討伐のため、朝廷から臨時に任じられた総指揮官のこと。
鎮守将軍と同格の栄誉職です。
武士の棟梁として事実上日本の最高権力者である征夷大将軍に就任し、源頼朝は鎌倉幕府を、足利尊氏は室町幕府を開きます。
その後、慶應3年(1867)徳川慶喜の大政奉還で「征夷大将軍」職は廃止となりました。
礎石の上に正殿が建てられていましたが、発掘調査によって、ほぼ同じ規模の建物が三回建てかえられたことが明らかになっています。
では、後述しますねと述べた「北辺城柵」について。
北辺城柵は、大和政権が東北地方の蝦夷を中心に服属しない人々を鎮圧し、開拓していくための基地として造られた「城」です。
大和政権は7世紀の中頃から、土塁と堀と木柵によって周囲を囲んだ「柵(き)」と呼ばれる「城」を、東北地方に続々と造っていきます。
その中心が多賀城でした。
有名なものは、出羽柵、秋田柵(秋田城)、胆沢柵などがあります。
私は、2001年8月27日に秋田柵(秋田県)を、2006年6月23日金沢柵(秋田県)、2006年9月10日鳥海柵(岩手県)、胆沢柵(岩手県)を探訪しました。
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多賀城の復元模型が、JR東北本線国府多賀城駅前にある東北歴史博物館に展示されていますよ。
千石線の多賀城駅ではありませんので、多賀城登城のさいにはくれぐれもご注意くださいね。
*多賀城詳細
・アクセス:JR国府多賀城駅から徒歩15分
・営業時間:24時間
・休業日:なし
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【参考文献】
平井 聖監修『1 北海道・東北 吹雪舞うみちのくの堅城』(毎日新聞社 平成9年3月25日発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、井上宗和『日本の城の基礎知識』(雄山閣出版 平成3年7月5日再版)、石井進監修『文化財探訪クラブ6 城と城下町』(山川出版社 1999年7月25日1版1刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本教育連盟)、『城 其ノ二』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟) 、パンフレット「史都 多賀城」(多賀城市・多賀城市観光協会)他
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