京都府の長岡京にある勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)は、豊臣秀吉と明智光秀の戦場近くにあります。
山崎の戦いですね。
いろんな事柄で有名な城で、細川藤孝(ふじたか 後の幽斎)築城の城、そして細川ガラシャお輿入れの城、さらに明智光秀最後の城として知られていますよ。
すでに何回か登城していたのですが、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」ゆかりの城でもあるので、今回再度攻城することにしました。
緊急事態宣言発令中のことで大阪から京都に出かけるのを少し躊躇しましたが、6月11日に思い切って一人で出かけました。
久しぶりにJRに乗車。
電車の中は空いていました。
梅雨のさ中で天気はあまりよくありませんでしたが、雨に降られることもなくJR長岡京(旧神足)駅で下車です。
地図に従って勝龍寺城を目指し、約15分の距離を歩いていきます。
以前来た時には、↓こんな案内はありませんでした。
NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の放映決定に伴った発掘調査かどうかわかりませんが、土塁址が整備されていました。
神足(こうたり)神社入り口近くにある、発掘調査で明らかになった空堀や土塁が観察できるようになっています。
説明パネルもあるのですが、この季節雑草が生え茂り、その形態が分かりづらいのは残念です。
登城ついでに神足神社も参拝。
現在の勝龍寺城は平成3年(1991)に天守建築風の資料館を兼ねたホール、濠や土塀などが整備されたものです。
2021年の今年は勝龍寺城築城450年ということで、講演会をはじめ様々なイベントが計画されているようです。
また小さいながらも展示内容も充実していました。
館内の勝龍寺城紹介のビデオは大変勉強になりましたね。
たとえば城郭考古学者として最近テレビ出演の多い、奈良大学教授千田嘉博先生の説明。
勝龍寺城に「天主」と呼ばれる建物があったなど、初めて知ったことが多くありました。
戦国時代、京都防衛の要衝にある勝龍寺城は、松永久秀の家臣・岩成友通が守っていました。
織田信長は岩成を滅ぼし、元亀2年(1571)細川藤孝に与えます。
藤孝は信長の命により勝龍寺城を近世城郭として改修し、入城しました。
城郭での本格的な瓦や石垣の使用は、天正4年(1576)の安土城築城が区切りになると一般的には考えられています。
しかし勝龍寺城の発掘調査の結果、勝龍寺城でも瓦や石垣がすでに使用されていたことが確認されました。
もちろん安土城のような高石垣などではありませんが、石垣が築かれ、瓦が使われていたことは間違いのないことです。
また近年発見された藤孝の同時代史料(1573)から、「天主」と言う名前で呼ばれていた建造物が勝龍寺城にも存在していたことが確認されました。
この藤孝は戦国武将として活躍する一方で、歌道や古典に通じた戦国随一の文化人として知られています。
その藤孝は、三条西実澄(実技)から一子相伝の秘事である「古今伝授」を受け取っています。
その受け取り場所が勝龍寺城の「天主」だったと記された資料が発見されたのです。
大発見です( ゚Д゚)!!わーお!
千田教授は、この「天主」は信長が建てた安土城のような大きな建物ではなく、おそらく二階建てくらいの隅櫓風の建物だったと推測しています。
しかしそれが「天主」と呼ばれていたことは、展示している資料を見れば明らかです。
もう一度、わーお!!( ゚Д゚)
タイミングとしては、中世の土造りの城館から近世の石造りの城への過渡的な時代でした。
ですから、勝龍寺城の石垣にも光秀が築いた福知山城などと同じように、石仏や五輪塔等の転用石が多く使われています。
それら転用石は、平成になってから新たに石垣を築いた時に集められて供養されていますよ。
出土した瓦は、同時期に明智光秀が築いた坂本城と同じ型で作られたものや、信長の居所であった旧本能寺と同じ系統の瓦だということです。
城造りに際し、信長から家臣たちへ、瓦工人などの職人集団が派遣されていたと考えられています。
信長は、それまで寺社に属していた石工や大工などの専門職人を職人集団として自立させていったのでしょう。
そのことが伺える出土品ですね。
千田先生によると、勝龍寺城は「瓦・石垣・天主」を備えた近世城郭の原点の城ということです。
驚きました。
石垣なのは、土塁の下部にあって水と接している所と上部の塀の下部を支えている所です。
石の供給が充分でないので、重要なところだけを石垣にしているのですね。
水に接した石垣は腰巻石垣、土塁の上の石垣は鉢巻石垣と言います。
近畿では彦根城に同じような石垣がありますよ。
圧倒的な秀吉軍の前に、期待していた援軍もなく光秀は山崎の戦いに負け、勝龍寺城へ退却します。
人生最後の夜を、娘の玉がいた勝龍寺城でどのような想いで過ごしたのでしょう。
夜半城を脱出、坂本城へ向かうも、伏見小栗栖の藪で落ち武者狩りに討たれて絶命しました。
細川藤孝の息子・忠興(ただおき)は、信長のすすめにより天正6年(1578)光秀の娘で絶世の美女と言われた玉(のちに洗礼を受けてガラシャ)と結婚します。
婚礼は勝龍寺城で行い、丹波に移封するまでの2年間二人はしあわせな新婚生活をここで過ごします。
藤孝・忠興親子は、光秀から山崎の戦いで加勢を求められるも応じず、玉を離縁し味土野(京丹後市)で幽閉します。
天正12年は(1584)天下人となった秀吉の取りなしにより復縁、玉は大坂玉造の細川家屋敷に移ります。
その後玉はキリシタン大名高山右近の影響で洗礼を受け、ガラシャという洗礼名を授かりました。
本名の「玉」という名前にかけたものと言われています。
関ヶ原の戦いに先立ち、石田三成方は家康側の忠興の妻・玉を人質にするため細川屋敷を包囲しました。
しかし人質になることを拒んだガラシャは、家老小笠原少斎の介錯により自害。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」の辞世の句を残しています。
38歳でした。
ガラシャの子孫でもある元の総理大臣の細川護熙(もりひろ)は、熊本城主細川家18代当主。
彼が議員辞職のときにこの句を引用し、改めて注目されました。
細川忠興は、信長・秀吉・家康に仕え、近世大名細川家の基礎を築きます。
戦国乱世を生き抜いた勇猛な武将ですが、千利休の高弟「利休七哲」の一人にも数えられています。
関ヶ原の戦いで軍功をあげ、丹後国宮津城主から豊前国小倉藩39万石初代藩主、息子の忠利は中津城主となります。
孫の忠利は、寛永9年(1632)には名築城家加藤清正が築いた肥後熊本城に54万石の大大名として入城します。
これは大出世ですね。
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勝龍寺城は、そういう意味で細川家の立身出世の城と言えます。
元首相の細川護熙氏も政界を引退してから陶芸家として活躍しています。
文化人の血は脈々と流れていたんですね。
長岡京市のサイトです。イベントなどの確認にどうぞ!
*勝龍寺城詳細
・住所:長岡京市勝竜寺13-1
・アクセス:JR京都線「長岡京」駅下車、東口から南へ徒歩10分/阪急京都線「長岡天神」駅から阪急バスで5分「JR長岡京」下車、南へ徒歩10分
・営業時間:4月~10月 9時~18時/11月~ 3月 9時~17時
・休業日:年末年始(12/28~1/4)
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【参考文献】
勝龍寺城パンフレット、『日本城郭大事典』(新人物往来社 1997年6月27日発行)他
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