日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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気ままにぶらっと城跡へ⑪田辺城へ行ってきた

田辺城渡櫓城門

「気ままにぶらっと城跡へ」も11回目ですね。

今回は、京都府舞鶴市にある田辺城址に行ってきました。

鶴が翼を広げたような縄張りから、舞鶴(ぶかくじょう)とも呼ばれている平城です。

地名の舞鶴まいづる)は、明治になってこの田辺城の別称から名づけられたそうですよ。

田辺城址には1998年9月2日に初登城、それ以後も何度か登城しています。

そしてさらにこの2022年3月25日に、「青春18きっぷ」を使って再探訪してきました。

そのさい、舞鶴出身の元同僚のS氏に舞鶴の観光を兼ねて案内してもらいました。

大変お世話になりました、ありがとうございます!

細川幽斎座像

細川藤孝(ふじたか 後の幽斎)が築城した田辺城は、北に舞鶴湾、南側は湿地帯、西は高野川と東は伊佐津(いさず)川に挟まれた、要害の地に建てられています。

天正8年(1580)に織田信長の命令により、丹後の守護大名一色(いっしき)氏を滅ぼした藤孝は、嫡男の忠興(ただおき)とともに丹後に入国します。

宮津に本城を築城し、天正11年に支城として田辺城の築城に着手しました。

ほぼ四角形の本丸を内濠が囲み、その外側を二の丸、中濠、その外側を三の丸、外曲輪が取り巻く輪郭式の縄張りです。

外濠と高野川、伊佐津川で守りを固めた、まさに難攻の要害と言えるでしょう。

田辺城縄張図(田辺城資料館展示パネルより)

天正10年本能寺の変のとき、藤孝は息子・忠興の妻ガラシャが光秀の娘であり、光秀は盟友でしたが、義を盾に光秀の味方につきませんでした。

家督を息子の忠興に譲り、剃髪して幽斎と名乗り田辺城に隠居してしまいます。

関ヶ原の戦いの折、忠興は徳川方について会津上杉征伐のために参陣。

関ケ原の戦いのおよそ2カ月前のことでした。

その留守を狙って、福知山城主の小野木重勝(おのぎ しげかつ)を総大将とする石田三成方総勢15,000人が丹波に攻撃してきました。

幽斎は、本城の宮津城や他の支城を焼き払い、わずか500人の城兵とともに田辺城で籠城戦を戦います。

圧倒的な劣勢の中、幽斎は何と50余日間にわたって田辺城を死守。

しかし幽斎が「古今和歌集」の秘事口伝、「古今伝授」の伝承者であったため、古今伝授の廃絶を恐れた後陽成天皇の勅命で和議が結ばれました。

 

「いにしへも今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」

 

これは幽斎が籠城戦の際に詠んだ和歌です。

田辺城址に、この和歌に因んだ「心種園」という庭園が作られていますよ。

 

その後関ヶ原の戦いの戦功により、慶長6年(1601)に細川家は九州小倉城に入封します。

その後に信濃飯田から京極高知(たかとも)が入城しました。

高知没後に丹波宮津・田辺・峯山の三つに分けられ、次男の高三(たかみつ)が田辺藩主となります。

寛文8年(1668)の京極氏転封後は、摂津国から牧野親成(ちかしげ)が入り、荒廃した田辺城の大改修を行い、10代200年続いて明治を迎えます。

 

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彰古館という二重櫓

昭和17年(1942)に、「彰古館(しゅうこかん)」という平櫓をともなった二重櫓が再現されました。

彰古館は、有本国蔵氏の寄付により、紀元二千六百記念事業として着工。

田辺城の隅櫓を模した文化財陳列館として完成しています。

私が行ったときはNHK大河ドラマ麒麟がくる」に因んで、細川幽斎関連の展示となっていました。

二重櫓の二階からの展望 右側は櫓門

田辺城渡櫓門

平成4年に渡櫓の城門が、本丸の内濠を埋めた場所に再建されました。

渡櫓の城門は2階部分が田辺城資料館になっています。

田辺城の古図に描いかれていた城門や、二条城の門などを参考にして設計されたようです。

打込接ぎの石垣の上に鉄砲狭間を持つ土塀がのり、白漆喰総塗籠の堂々たる城門となっています。 

野面積みの天守

天守

隅櫓跡の野面積みの石垣

本丸石垣

田辺城の石垣はほとんどが野面積みに石垣で、隅部も算木積みとなっています。  

濠は埋め立てられていますが、形ばかりの溝のようなものが作られていました。

明治6年(1873)に田辺城は廃城となり、本丸付近は舞鶴公園として整備され市民に開放されています。

城址にはわずか本丸の石垣と天守台が残るだけです。

 田辺城スタンプ

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田辺城を築城した細川家のその後にも触れておきますね。

 

関ヶ原の戦い後、細川家は、忠興の戦功で豊前(ぶぜん)中津に33万9000石で国替えとなりました。

中津に移った細川親子は中津城を大改修するとともに、小倉城も改修します。

藤孝は、当代きっての武将であるばかりでなく、古今伝授の大文化人でもあり、名築城家だったと言えるでしょう。

息子の忠興も茶人・細川三斎(さんさい)として有名で、利休の七哲の一人でした。

細川家は、最後に名築城家として名高い加藤清正が築城した熊本城へ54万石で入城。

240年間在城して、明治を迎えます。

細川家は、第79代総理大臣を務めた細川護熙(もりひろ)氏が、今日でも有名ですね。

護熙氏は、熊本県知事(当時全国最年少知事)を2期務めたあと参議院議員衆議院議員、そして総理大臣となります。

政界引退後は、陶芸家、茶人と活動を続けていますね。

幽斎以来の文化人としてのDNAが彼の中にも生き続けているのでしょうね。

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この日は田辺城址探訪の前に、五老スカイタワーに行きました。

五老スカイタワーは近畿100景の第1位に選出されており、五老岳にあります。

展望タワーからリアス式海岸若狭湾若狭湾国定公園)を一望し、近畿100景第1位の絶景を存分に楽しみましたよ。

昼食は、S氏の知人がやっている居酒屋を特別にお昼に開けてもらい、日本酒好きのわれわれのために用意していただいた料理をゆっくり楽しみました。

銭湯「若の湯」

上の写真は、舞鶴の街を歩いていた時に見つけた明治時代から続いているお風呂屋さんです。

なんともレトロな良い建物でしょう。

こんな立派な銭湯に入ってみたかったなあ。残念。

 

青春18きっぷ」を使った「気ままにぶらっと城跡へ」の充実した1日でした。

S氏と居酒屋のおかみさんに感謝。

居酒屋の女将さんと不思議な縁があることが、お話をしているうちにわかりましたが、ここでは省略します。

(写真は筆者撮影)

 

*田辺城詳細

・住所:京都府舞鶴市南田辺15-22

・アクセス:JR山陰線・舞鶴線西舞鶴駅から徒歩約10分

・営業時間:入園は自由/田辺城資料館は9:00~17:00(最終入館は16:30まで)

・休業日:盆時期休、12月29日~翌1月3日/資料館は毎週月曜休み(祝日の場合は翌々            日が休み)、祝日の翌日 

 

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【参考文献】

平井 聖監修『城 5 近畿 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ一』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京棠出版 2002年㋆15日発行)、田辺城資料館パンフレット」、「細川幽斎ゆかりのまち歩きマップト」(舞鶴市観光振興課)他

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