第10回目の「気ままにぶらっと城跡へ」は、兵庫県にある三木城です。
ここは羽柴秀吉の「三木の干し殺し(ほしごろし)」で有名なところですね。
2022年2月25日に行った探訪では大学の後輩が車で案内してくれました。
そのため予定していた城跡だけでなく、三木城攻城のときに造られた秀吉本陣跡、そして秀吉の軍師・竹中半兵衛の墓にも行けました。
嬉しかったです。
ではまず、主役の三木城から。
三木城は美嚢(みの)川左岸の上の丸台地の先端に築かれた平山城。
別所則治が15世紀後半に築城、長治が1570年頃城主になっています。
本丸と二の丸を中心に、新城・鷹尾山城・宮ノ上要害で構成され、各曲輪が並列する構造となっていました。
南側は山の谷で他の三方は崖に囲まれ、背後となる南側には鷹尾山城と宮ノ上要害を配した堅固な城です。
二の丸跡にはみき歴史資料館があり、三木城や三木合戦などが分かる資料が展示されています。
何種類かのパンフレットもありましたよ。
本丸跡は明治30年(1897)に上の丸公園として整備されました。
ただし上のマップで分かるように、二の丸や本丸跡には公共の施設や、神社、忠魂碑などが建立され、とても公園と呼べるようにはなっていません。
しかしそれらの建物も移転していますので、いずれ城跡公園として整備されるのではないかと期待しています。
遺構としては唯一かんかん井戸がありました。
「三木合戦」は、天正6年(1578)3月から同8年1月17日までの1年10カ月にわたる戦のこと。
羽柴秀吉を大将とする織田信長方と、毛利輝元を後ろ盾とする三木城主・別所長治方との戦いでした。
信長方は三木城周辺に付城を築き、三木城への兵糧搬入ルートを閉ざしていきます。
いわゆる兵糧攻めです。
天正7年5月以降には毛利方からの兵糧搬入が、付城包囲網によって出来なくなりました。
三木城内に蓄えた食料は尽き、餓死者が数千人もでるなどの「干し殺し」の状態となっていきました。
長治は城兵の助命を条件に秀吉の降伏勧告を受け入れ、別所一族は自害して三木城を開城します。
長治の辞世の句
「今はただうらみもあらじ諸人(もろびと)のいのちにかわる我身とおもへば」
と刻まれた石碑が本丸に建てられていますよ。
秀吉は、三木合戦終結のあと、合戦で荒廃した城下町の復興をしていきます。
そのため「地子(じし)免許・諸役免除の特権」を認めました。
「地子」とは、現在の固定資産税のこと。
税金やいろんな仕事を押し付けられることを、領主から免除されたということですね。
これを拠り所に、三木は城下町から在郷町へと転換。
江戸時代以降は地域経済の中心地の役割を担っていきます。
三木城は元和元年(1578)の一国一城令によって廃城となりました。
秀吉が出した「地子免許・諸役免除の特権」は、徳川の時代には見直されるべきものでしたが、三木の人たちはその特権を江戸幕府にも主張し認めさせています。
偉いものです。
秀吉は、この後同じように鳥取城の兵糧攻め「鳥取の渇(かつ)泣かし」、「備中高松城の水攻め」をします。
三木合戦は、秀吉が広範囲に堅固な包囲網を作り攻城する戦法の最初の事例。
これによって、秀吉の城攻めの神話が不動のものになりました。
後ろの小高い所が伝天守台跡
信長による別所長治の首実検の後、雲龍寺の住職が長治の首を貰い受けて埋葬したと伝えられる首塚が、三木城のすぐ近くにあります。
毎年1月17日に法要が営まれ、長治公の遺徳を讃えていますよ。
また地元は「三木の恩人」として、毎年5月5日に長治公を偲ぶ「別所公春祭」を開催。
地元の人に愛されていますね。
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車で連れて行ってもらえたので見ることができた、竹中半兵衛の墓と羽柴秀吉の本陣跡についても書いておきます。
竹中半兵衛の墓は、秀吉が本陣を置いた平井山のほぼ麓にある、ブドウ園のなかにありましたよ。
竹中半兵衛は、羽柴秀吉の参謀として活躍し、黒田孝高(よしたか 通称勘兵衛、後に如水)とともに「両兵衛」とか「二兵衛」と言われ、36歳の若さで亡くなった有名な軍師です。
この三木合戦の最中に、伊丹の荒木村重が信長に反旗を翻します。
荒木を説得に行った黒田勘兵衛は、逆に捕らえられ約1年間土牢に押し込まれました。
信長は、黒田勘兵衛が裏切ったと思い、黒田の子供(黒田長政)を殺すように命じます。
このとき竹中半兵衛が偽の首で誤魔化し、長政を自分の領地に連れて行って、家臣の家に匿った話も有名です。
墓は白い練り塀に囲まれていて、掃除もいき届いていました。
造花ですが花も飾られ、毎年7月には半兵衛を偲ぶ法要が執り行われているとのことです。
三木市の人たちに大切にされているんですね。
羽柴秀吉が本陣を置いた平井山ノ上付城(つけじろ=城を攻めるために敵城の周辺を取り囲んだ砦)跡の主郭部分です。
結構広く、三方を土塁が囲んでいたようです。
かすかに土塁が残っていました。
三木城が見える展望台が作られていましたが、ロープが張られていて上がることが出来ませんでした。
途中には山の地形に合わせて段状の平坦地が築かれていました。
秀吉の本陣以外に、三木市が付城の遺跡として把握しているものは26城もあるとのことです。
(註:写真は筆者撮影)
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*三木城詳細
・営業時間:24時間
・休業日:年中無休
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【参考文献】
中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日初版発行)、「三木合戦物語」、「国指定史跡 三木城跡及び付城跡・土塁 ウォーキングマップ」(三木市商工観光課)他
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