31回目ですね、今回は、石川県の金沢城です。
平山城で別称は尾山(おやま)城。
2006年に「日本100名城」(第35番)に選定されています。
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では、歴史から見ていきましょう。
江戸幕府以外では最大の120万石を誇る加賀藩前田家の居城として、加賀・能登・越中に睨みをきかせた金沢城。
元は北陸で絶大な勢力を持っていた一向一揆の拠点の一つ、浄土真宗本願寺派の尾山(金沢)御坊でした。
犀川と浅野川に挟まれた小立野(こだつの)台地の突端部分にあった尾山御坊を、天正8年(1580)に織田信長の命を受けた柴田勝家(かついえ)と佐久間盛政(もりまさ)が滅ぼし、佐久間盛政を据えます。
佐久間は御坊を徹底的に破壊。
戦国末期の築城技術の粋を集めた、金沢城の前身となる尾山城を築きます。
しかし、天正11年(1583)に賤ケ岳(しずがたけ)の合戦で、柴田勝家とともに羽柴秀吉に敗れ滅亡。
利家は加賀だけでなく、能登、越中に及ぶ広大な領地に相応しい城郭に大改修します。
当時明石6万石の領地を没収され流浪中だった、キリシタン大名の高山右近(うこん)を秀吉の許可を得て召し抱えました。
右近に縄張りのなど築城を任せ、100万石大名に相応しい近世城郭として整備してゆきます。
右近は、秀吉のキリシタン禁令にも信仰を捨てなかった戦国武将です。
彼は畿内の先進的な築城術を身につけており、その手腕を利家が認めていたため、金沢城と高岡城の築城を任せたのですね。
工事は文禄元年(1592)からスタートしました。
城壁をすべて石垣で固め、城下町までを囲む惣構(そうがまえ)の城郭を築きます。
完成したのは慶長15年(1610)頃で、利家の子・利長(としなが)の時代でした。
前田家120万石の居城となった尾山城は金沢城と呼ばれ、五重の大天守が築かれたようですが、慶長7年の雷火により天守や本丸の建物も大半が焼失します。
そのとき天守は再建されず、三階櫓を建てて代用としました。
金沢城は一度も藩主家を変えませんでした。
利家から14代およそ280年の間、前田家を城主として戴き、明治維新を迎えます。
その間、数度におよぶ火災で多くの建物が焼失。残念…。
明治になって金沢城は陸軍が使用していましたが、昭和24年に金沢大学が開校し、城内にキャンパスが置かれます。
平成7年(1995)の2月に金沢大学は完全移転。
その跡を史跡公園として整備して、現在はさまざまな建物の復元が進んでいますよ。
今は、素晴らしい城となっていますね。
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私は金沢城へ、2001年8月5日に登城しました。
もう約20年前のことになりますね。
金沢城は、戦国時代から徳川の太平の時代へと変わるなかで、名武将・前田利家(としいえ)とその子孫が営々と築き上げた120万石の居城です。
海鼠(なまこ)壁と唐破風付き出格子窓の優美なデザインの中に、徳川との戦いを想定した実戦への万全な備えを秘めた、天下の名城です。
現在、橋爪一の門や五十間長屋、菱櫓、今年は木橋鼠多門橋及び鼠多門などが復元され、じつに見ごたえのある美しい城址となっています。
本丸を中心にして左回りに二の丸、三の丸、鶴の丸、東の丸という渦郭格式の縄張り。
平山城です。
石川門は現在金沢城の正門のようになっていますが、実は三の丸から兼六園に行く搦手(裏)門です。
搦手門であるにもかかわらず、守りの厳重な内枡形を形作っていますね(次の写真参照)。
真ん中の一ノ門に向かって左側に唐破風の出格子窓をもつ二重二階建ての櫓(菱櫓)と、同じ唐破風の出格子窓をもつ櫓門が対をなし、橋を渡ってくる敵を迎え打ちます。
出格子窓を取り付けた外観は優美ですよね。
しかし、内側には多くの鉄砲狭間が隠されています。
また太鼓塀にも外からは見えない隠し狭間を設置。
防御力が大変強い搦手門で、この重要文化財の石川門はかつて旧金沢大学の正門となっていました。
石川門枡形はほぼ完存する内枡形門で、一の門に高麗門を、二の門に渡櫓門を配しています。
高麗門脇の二重櫓(菱櫓)と立派な切込接の石垣の上の渡櫓門とは、多門櫓で接続。
渡櫓門には唐破風の出格子窓がついていますね。
門には鉄を全体に張り詰めず、少し間を開けて張った筋鉄門と呼ばれる形式です。
先端が二股に分かれている横向きの金具が上から張られていますが、これは八双(はっそう)と呼ばれ扉の強化のために使われているもの。
意匠のアクセントにもなっています。
土塀に付けられた(隠し)狭間から攻撃するための、石段も設けられていますよ。
平成13年(2001)に復元された橋爪一の門(左)と三重三階続櫓、それに接続してある二重二階の五十間長屋(多門櫓)と三重三階菱櫓です。
どちらも一重目に金沢城の特徴である海鼠(なまこ)壁と、唐破風付きの出格子窓が付いています。
白漆喰総塗籠の美しい姿を甦らせていますね。
金沢城の特徴は、以下の3つです。
- 海鼠壁・・・建物の壁下部が冷害による崩壊を防ぐための方形の瓦を張った壁
- 鉛の瓦・・・寒さに強いだけでなくいざという時に鉄砲玉に加工するつもりだったとされた瓦
- 意匠凝らした櫓や窓・・・二の丸菱櫓、石川門の続櫓のように平面が菱形をした櫓、唐破風付き出格子窓など
下の写真は、安政5年(1858)本丸に建てられ、鉄砲、火薬の製造場や倉庫として使われていた三十間長屋です。
縄張り図を見ると理解できますが、このような建物が本丸にあるのは珍しく、戦時には防壁となることを想定してこのように約47㎡もの長い形に造られたようです。
重要文化財となっています。
下の写真は、平成22年(2010)年に再建された河北門です。
河北門は金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する三の丸の正面であり、金沢城の実質的な正門です。
石川門と橋爪門とともに金沢城三御門と呼ばれていました。
2020年の7月に城内最大規模の木橋鼠多門橋及び鼠多門が約140年ぶりに復元整備され、往時の姿が甦りました。
東の丸背後の石段は四段、数十メートルの断崖状になっています。
石川県といえば、兼六園ですよね。
兼六園はもともと城と一体の台地でしたが、城域としては広すぎるために分離し、その間に百間堀を開削、兼六園を城の東を守る障害としたものと考えられています。
日本三大名園の一つである名勝兼六園は、金沢城外曲輪に五代藩主綱紀(つなのり)が延宝4年(1676)に造った庭。
それがのちに拡張され、11代斉広(なりなが)の代に完成したものです。
言わずと知れた水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに日本三大公園の一つです。
兼六園の冬の景色もきれいですが、桜の季節もきれいです。
「日本さくら名所100選」に選ばれています。
すご~く綺麗ですよね。
これぞまさしく、冬の絶景✨です。
また、金谷出丸跡には明治6年(1873)に、藩祖・前田利家を祀る尾上神社が建立されていますよ。
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しかし40年ほど前は、金沢城と言っても石川門(続櫓、櫓門)だけしか見るものはありませんでした。
約50年近く前、学生の時に初めて金沢城に行きました。
それは金沢城を見るためではありません。
五木寛之の『内灘夫人』(新潮社 1969年発行)を読んで、内灘闘争の跡を見に行ったついでに、金沢大学に行ったのでした。
石川門を入った奥のほうに金沢大学があり、至る所に新左翼学生団体の立看板が乱雑に並べられている、汚いキャンパスだったのを覚えています。
ちなみに、現地のボランティアガイドさんによりますと、1月下旬が最も美しく見えるとか。
寒さに強い方はぜひ、真冬の金沢城と兼六園を楽しんでください。
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【一泊二日の北陸の城址を訪ねて】
ここは、前田家二代目藩主の利長が高山右近に命じて縄張りをさせ、築城した隠居城(元和元年(1615)に一国一城令により廃城)です。
その後に金沢城に行き、再建された五十間長屋などを見て大変驚きました。
翌6日は本丸櫓台が残る小松城址、藩主の別亭長流亭が遺構として残っている大聖寺城跡、JR福井駅近くの柴田勝家の城北ノ庄城址を探訪。
そのあと、家康の次男結城秀康の居城で現在は福井県庁がある福井城址へ。
以上6つの城を、JR北陸線に乗って南下しながら楽しみました。
「金沢城公園」の公式サイトも紹介しておきます。ぜひのぞいてみてくださいね。
*金沢城詳細
・住所:石川県金沢市丸の内1-1
・アクセス:金沢駅からバスで15分(北陸鉄道路線バス、城下まち金沢周遊バス、兼六園シャトル)兼六園下から徒歩で5分
・営業時間:3月~10月15日 7:00~18:00/10月16日~2月 8:00~17:00
・休業日:無休
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【参考文献】
平井 聖監修『3 甲信越・北陸 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行))、石井進監修『文化財探訪クラブ 城と城下町』(山川出版社1999年7月25日1版1刷発行)、中井均『超雑学 読んだら話したくなる 日本の城』(日本実業出版社 2010年6月20日発行)、中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社2007年㋆15日発行)他
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