*知っておきたい城郭用語(その7)
ここで紹介するのは、お城を理解する助けとなる用語です。
パンフレットや本を読んだとき、つまりこれは何? と悩むことはありませんか?
お城を探訪する時や関連する本を読むときに、役立つ基本語その7を順次紹介していきましょう。
まずは「城郭」についてです。
【中世城郭】
安土城より前の土造りの城。
【近世城郭】
安土城以後に普及した石垣造りの城。
「織豊系城郭」
高い石垣と天守建築を特徴とします。
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*大名と城
江戸時代に城を持てるのは原則1万石以上の大名。
幕末には280家、城主大名は158家、城主格大名は17家、城は210城位あったらしいです。
1万石以下の大名は、陣屋しか持てなかったのですね。
しかし、江戸末期国防上の必要性から城持ち大名に格上げされて城を持つことを許された大名もいます。
また、藩ではないのですが、徳川幕府から大名家に派遣されていた附家老などが城持ち城主のこともあります。
*一国一城令(いっこくいちじょうれい)と武家諸法度(ぶけしょはっと)
元和元年(1615)年、大坂の陣において豊臣家が滅亡すると、徳川幕府が制定した法令です。
諸大名に対して、居城以外の城の破却を命じました。
住んでいる城(居城)以外の城はすべて壊しなさい、という命令ですね。
これにより支城や出城などは廃絶が決定しています。
以後、原則として新規築城は禁止され、修復も幕府の許可を得なければならなくなりました。
福島正則(ふくしま まさのり)のように、無断修復を咎められ、改易になった例もあります。
「武家諸法度」以後新たに築城が許されたのは、尼崎城、明石城、赤穂城、福山城、島原城の五城です。
尼崎城、明石城、福山城は、豊臣秀頼のいる大坂城包囲のためと、西国の外様大名の押さえのため、幕府の命令により築かれた城。
外様の浅野家が築いた赤穂城は特別で、讃岐の松平家が有事の際に上陸地を確保するために特別に認められたものと言われています。
法令の目的は、大名、とくに西国大名の軍事力を削減するため。
このとき、約400の城が壊されたと言われています。
大坂の陣(1615年5月)のすぐ後であり、幕府に対する反乱はもちろん、大名同士の戦争も封じるためのものでした。
*正保城絵図(しょうほうしろえず)
徳川家光が、正保元年(1644)に全国の諸大名に対して、国絵図とともに城絵図の作成を命じたものです。
全国の城郭管理の一環としての行いでした。
正保城絵図と呼ばれるもので、現在63ヶ所の絵図が残されています。
堀の幅、深さ、土塁の高さ、石垣の高さ、櫓・塀の状況、城下町の町割り、街道など原則として軍事上重要な事柄が詳細に記入されたものです。
御殿などの非軍事的施設は記入されていません。
城郭を中心とした軍事施設を主題とした地図です。
このことによって、それぞれの大名は、城を中心とした最も機密性の高い軍事上のすべてのことを徳川幕府に把握されることになります。
もしも城絵図が実際の建築物と一寸でも違っていることが分かると、その大名は幕府によって所領が没収されたり、お家断絶とされました。
そのため、当時の姿が極めて正確に描かれたと考えられます。
このことにより、徳川幕府の絶対的な権威を諸大名ははっきりと認識させられたのです。
*廃城令
明治6年(1873)1月14日、明治政府発令の「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」の略称です。
廃藩置県を機に、一旦城はすべて陸軍省の財産となりましたが、軍用地として必要なものは存続(天守の存続という意味ではありません)、不要な城は廃城となり大蔵省の財産となりました。
存続にしろ、廃城にしろ、天守を始め多くの建物は破却されたか売却されました。
こうして廃城を逃れた天守は、昭和に入るまで20基が残っていたのですね。
しかし第2次世界大戦の戦火や失火で、広島城、水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、松前城の8基を失い、わずか12基の天守が残りました。
北から順番に紹介しますね。
- 青森県弘前城
- 長野県国宝松本城
- 愛知県国宝犬山城
- 福井県丸岡城
- 滋賀県国宝彦根城
- 兵庫県世界文化遺産・国宝姫路城
- 岡山県備中松山城
- 島根県国宝松江城
- 香川県丸亀城
- 愛媛県松山城
- 愛媛県宇和島城
- 高知県高知城
*余談
江戸時代は、「一国一城令」や「武家諸法度」などと、度重なる転封・減封・改易などが発生しました。
これにより、もはや領国も城も領主(藩主)のものではなく、徳川幕府からの預かりものとなってしまいます。
関ヶ原の戦いの後、大幅な転封がありました。
そのうえ参勤交代があり、江戸と国元との二重生活が義務付けられていきます。
ちなみに、関ヶ原の戦いの後、三代将軍家光までの時代に、外様大名82家、親藩・譜代大名49家が改易されました。
幕府は改易・減封によって生じた空白地を天領(直轄地)にし、親藩・譜代大名を新たに配置して、外様大名を遠隔地に転封したのですね。
これらにより幕府権力の絶対優位を確立していきました。
それだけでなく、転封を繰り返すことによって財力を削ぎ、土地の勢力との結びつきを薄くし、力を蓄えないようにしています。
彦根藩や土佐藩などのように明治まで転封のない大名もいましたが、多くの城は城主(藩主)が交代しています。
たとえば松本城城主(藩主)は6家、掛川城は13家が交代しました。
いわば、江戸(東京)の本社から支社長や支店長として赴任しているようなものです。
辞令一つで部下を連れて日本全国異動させられたのですね。
従って、藩主(城主)といえども、常に本社の顔色を伺わないといけない悲しいサラリーマンと同じこと。
執務場所の御殿は大事にしますが、天守には見向きもしません。
領国の権威のシンボルではあっても、もはや倉庫位にしか価値のない天守は放置されていきました。
悲しいことですが、仕方なかったのでしょうね。
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