第142回になりました!
川之江城は、伊予国の東の端、現在の川之江町にある海路・陸路の要衝にある鷲尾山(城山)に築城された平山城です。
伊予の守護河野氏家臣の土肥義昌(どひ よしまさ)が、南北朝争乱のさなかの延元2年・建武4年(1337)に、南朝方河野氏の砦として築いたのが始まりと伝わっています。
別称は仏殿(ぶつでん)城。
これは、土肥氏が築城したとき、恵心僧都開基の仏堂をそのまま城内に残したことによるようですね。
私は1996年7月14日に登城しました。
*********************************
川之江城は国境にあるため、阿波の三好氏の攻撃をたびたび受けています。
興国3年(1342)、川之江城は、北朝方細川頼春(よりはる)に攻撃されあえなく落城しましたが、その後、川之江城は河野氏に返されました。
元亀3年(1572)、河野氏の武将で城主であった妻鳥友春(ともはる)は、攻城してきた阿波の三好長治(ながはる)を撃退しています。
しかし、四国統一を目指して、戦いを繰り広げていた土佐の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)には対抗できず、ついに主君の河野氏を裏切ります。
天正7年(1579)頃に、河野氏の命令で友春を打ち取った河野氏の武将・川上安勝(やすかつ)が、あらたに川之江城の城主となります。
天正10年に再び長宗我部元親に攻撃され、川上安勝は戦死、川之江城は落城しました。
このとき、安勝の娘である年姫(としひめ)が、姫ケ嶽から燧灘(ひうちなだ)に飛び込んで自害したという悲しい伝説が残っています。
川之江城を巡る攻防は、長い間にわたって繰り返されました。
天正13年、豊臣秀吉の四国平定の戦いでの小早川隆景(たかかげ)の攻撃が、最後の落城でした。
松山に入封した加藤嘉明(よしあき)は松山城を築城、川之江城は廃城となります。
寛永13年(1636)には一柳(ひとつやなぎ)直家が川之江藩28,600石の初代領主に。
城山に城を築こうとしましたが、6年後に病気で死亡、直家には後継者がいなかったため、一柳家は播州小野に移されました。
その後、養子が認められ、一柳家は江戸末期まで存続したようです
しかし、川之江藩の領地は没収され、幕府直轄領となります。
川之江藩が復活することなく明治を迎えたため、わずか6年しか存続しなかった「うたかたの川之江藩」といわれています。
こんな寂しい藩があったとは、本当に知りませんでした。
*********************************
川之江市は、市民の寄付をもとに昭和59年(1984)度から城山公園整備事業とし、川之江城の再建を始めました。
市制施行30周年の記念事業でした。
昭和61年に、城郭の権威である東京工業大学名誉教授・藤岡道夫博士の指導を受けて、鉄筋コンクリート造り三重四階の望楼型複合式模擬天守が完成しました。
標高62mの城山に、その美しい姿を見せています。
二重目に大きな入母屋破風を置き、三重目には朱色の廻縁と華頭窓がつけられた古風なスタイルの天守です。
つづいて、二重の涼櫓(すずみやぐら)、櫓門、隅櫓、控塀などが復元されていき、昭和63年3月末に城山公園整備事業はすべて完了しました。
川之江城天守の内部には、江戸時代の川之江町の模型や川之江城の歴史などが展示されていますよ。
ご覧の通り、なかなか良い景色ですよ。
特に燧灘に沈む夕日は絶景だそうです。
涼櫓は、市民の方がお茶会などでの利用もできます。
そのような施設として再建しているのは立派だと思います。
他の城の管理者も見習うべきだと思いますね。
川之江城攻城は1996年7月14日でしたが、このときは勤続20年の特別休暇を取って、徳島から瀬戸内廻りを経て、四国を一周して城巡りを楽しんだのでした。←当然家族は放置されていました。母はワンオペで苦労を。信じられる?
その際の城の紹介記事は次のとおりですので、よろしかったら合わせてご高覧下さい。
*川之江城詳細
・営業時間:9:00~16:00
・休業日:月曜日※祝日のときは翌日 / 年末年始(12/29~1/3)
▼PR
【参考文献】
西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、「四国中央市ホームページ」、「東予歴史文化協議会ホームページ」他
▼PR