日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

お城大好き雑記 第143回 静岡県 高天神城

高天神城址(後ろの山)     by:photo-ac

143回目になりました。

今回は、静岡県高天神城です。

高天神城は、鶴翁(かくおう)山と呼ばれる標高132mの急峻な小山に築かれた山城です。

戦国時代には「高天神城を制する者は、遠州を制す」といわれた堅城で、徳川・武田が奪い合う要衝の城でした。

断崖絶壁の地形を利用しつつ、さらに四方に伸びる尾根の上にいくつもの曲輪を配した複雑な縄張りを展開、土塁・竪堀・横堀などで防御力を高めた難攻不落の城です。

高天神城は「続日本100名城」(第147番)に選定、国の史跡にも指定されています。

別称は、土方(ひじかた)城、鶴翁山の形状から鶴舞(かくぶ)など。

私が高天神城に登城したのは、2004年5月8日でした。

 

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高天神城大手道  by:photo-ac

高天神城の築城時期は、諸説あり不明です。

応永23年(1416)に今川了俊(いまがわ りょうしゅん)が築城したといわれていましたが、現在では否定されています。

また、16世紀には今川氏の家臣福島氏が、高天神城の城主になったとも伝わっていますよ。

元は今川氏の支城でしたが、永禄12年(1569)に徳川家康が手に入れます。

遠江侵攻を進める武田信玄は、元亀2年(1571)に2万の軍勢で高天神城を攻城しました。

しかし、このときの城主小笠原長忠は籠城して高天神城を死守します。

武田軍は撤退。

この戦いで「武田信玄でも攻め落とせなかった難攻不落の城・高天神城」として名を広めました。

しかし、天正2年(1574)、信玄の息子・勝頼が改めて攻城し、ついに開城に成功。

高天神城は武田方の城となります。

武田勝頼は、高天神城を武田氏の遠江最大の拠点の城として大改修を加えました。

堂の尾曲輪から井楼(せいろう)曲輪にかけて、100mにも及ぶ長大な横堀と土塁を築き、さらに各曲輪を分断する堀切を連続して設けています。

また、二の丸周辺には小さな曲輪が段差をもって重層的に連なるようにし、出入口のない行き止まりの構造に。

徹底的な迎撃構造の城にしました。

ところが長篠の戦い後、武田軍は弱体化。

家康は、5年の歳月をかけ横須賀城などの付城や砦を築いて天神城を包囲、高天

神城への補給路を徹底的に遮断しました。

そして天正9年(1581)に徳川家康は再び高天神城を攻城し、武田から奪い返します。

当時籠城していた高天神城の城将・岡部元信(もとのぶ)など、城兵全員が包囲軍への最後の襲撃を試みたのですが、ことごとく家康側に打ち取られ、ついに高天神城は落城しました。

この高天神城の奪回によって徳川家康遠江支配が確立され、高天神城は廃城。

それまでは付城であった横須賀城がこの地域の政治的中心の城となり、明治まで存続します。

 

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高天神城址碑   by:photo-ac

高天神城は、小笠山から南東に伸びる尾根の先端にある鶴翁山の上に築かれています。

城が築かれた山の周囲は小さな谷が入り組んだ複雑な地形で、城の三方は急な崖、東の丘陵の裾は湿地が広がっている天然の要害です。

高天神城は、「一城別郭(いちじょうべっかく)」といわれる城郭でした。

「一城別郭」とは、二つの独立した曲輪群が補完しあって一つの城として機能するように作られた縄張りの城のことです。

東の峰には本丸や御前曲輪、三の丸などの居住区域を置き、西の峰には西の丸を中心として二の丸、堂の尾曲輪などの戦闘区域を置いていました。

この東西の二つの郭を井戸曲輪が結んでいます。

南に延びる尾根に三の丸(与左衛門曲輪)、西の丸北側の尾根に堂の尾曲輪を置いています。

画像出典:掛川市観光パンフレット

追手門(大手門)址    by:photo-ac

本丸址   by:photo-ac

本丸跡の北側から西側には、土塁跡が残っています。

井戸曲輪にある「かな井戸」  by:photo-ac

この井戸の名前の由来は不明ですが、湧き出る水が鉄分を多く含んでいるためといわれています。

一説には、籠城方のお姫様が落城時にここへ身を投げ、自害したともいわれていますよ。

井楼(せいろう)曲輪址    by:photo-ac

井楼曲輪址は、西の丸から北へ突き出た半島状の先端にある曲輪です。

ここに物見のための井楼(望楼)が建てられていたことから、井楼曲輪といわれています。

この場所は、高天神城のウークポイントでした。

そのため土塁、堀切、横堀などの防御施設が二重、三重に施されています。

二の丸 堂の尾曲輪址   by:photo-ac

堀切址      by:photo-ac

大河内政局幽閉の石窟  by:photo-ac

この石窟は、家康直属の武将であった軍監・大河内政局(まさちか)が7年間も幽閉されていた場所です。

天正2年(1574)、25,000人もの大軍で、武田勝頼高天神城を攻撃します。

当時は小笠原氏助(うじすけ)が守っていたのですが、武田軍の前に城を守り切れません。

勝頼は、猛攻と調略で高天神城を攻めます。

結局、小笠原氏助は、武田氏から1万貫の所領と城兵の助命を引き換えに高天神城を開城してしまいました。

そのとき、城兵は武田方に付くか徳川方に残るかは各人に任せられたのですね。

しかしただ一人、高天神城の開城に応じなかったのが軍監・大河内政局(まさちか)でした。

大河内政局は、本丸下にある石窟に幽閉されることになります。

政局は、三河以来の家康の家臣であり、外戚関係の武将でした。

敗れたとはいえ、家康直属の武将としての誇りから開城を潔しとしなかったのでしょう。

この石窟の話は、後世の伝承、創作と思われていました。

しかし、平成22年の台風により石窟の上部が崩落、埋没したため、緊急の調査が行われた結果、下層から竪穴と横穴(石窟)が発見されたのですね。

何と、幽閉が事実であったことが判明しました。

政局は、7年後の天正9年に、徳川による高天神城奪回の際に石窟から救い出されています。

救い出されたときは、視力を失い歩行も怪しい状態だったようですよ。

50歳ほどだったにもかかわらず70歳くらいに見えたそうですが、7年も石窟で生き延びていたのがすごいですよね……。

搦手門址にある高天神社の鳥居  by:photo-ac

高天神城を守護する高天神社です。

かつては東峰御前曲輪にありましたが、現在は西峰の西の丸址に移設されています。

西の丸址と高天神社   by:photo-ac

高天神社   by:photo-ac

高天神城址から望む富士山と小笠丘陵  by:photo-ac

 

高天神城詳細

・住所:静岡県掛川市上土方嶺向3136外

・アクセス:JR掛川駅北口3番乗り場から掛川大東浜岡線「浜岡営業所」行又は「大東支所」行で「土方」下車、徒歩約15分

・営業時間:24時間

・休業日:なし

 

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【参考文献】

公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行)、小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日 第1版第1刷発行)、『別冊歴史読本◎入門シリーズ 日本城郭大事典』(新人物往来社 1997年6月27日発行)、掛川市 文化・スポーツ振興課ホームペ―ジ 他

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