日本全国にあるお城。見ていく中で「ん?」と感じたことを書いていく「かるーいお城の雑学」です!
今回は大名の家格と城について、みていきましょう。
「城」を築き、持てる大名は、江戸時代では原則1万石以上の大名でした。
それ以下の大名(領主)は陣屋しか持つことが許されていなかったのですね。
しかし、1万石以上であれば誰でも城を持てたかといえば、そうではありませんでした。
上の「徳川幕府諸侯格式一覧表(慶應年間排列)」は、昭和46年(1971)10月31日に中津城文化保存会から発行されたもので、奥平昌信氏が著者です。
「慶應年間排列」とありますから、江戸時代の終わり、徳川慶喜の時代、幕末の1865年から1868年です。
その時の大名の石高順の表ということですね。
著者の奥平氏は、元中津城主奥平家17代当主で、昭和39年(1964)に中津城を建造した中心人物です。
この表には、御三家と諸侯として1万石以上、267家の石高と家の家格が書き表されています。
この表をもとに、大名の石高と家格と城の関係を考えていきましょう。
【大名の石高・家格と城】
大名の格付けには、領国の大小や居城の存在によって、次のような基準がありました。
・国主(国持大名)
・城主(城持大名)
・格城主(城持並)
・「城主格」の大名以外の城主
・領主(無城)
国主(国持大名)
たとえば土佐国一国を領した山内家や、加賀、越中、能登の三国を領した前田家のように一国以上の国を領する大名、もしくは一国には至らないが、大領土を領有する大名のことを言います。
上の「徳川幕府諸侯格式一覧表」によると、10万石以上の49家の大名のうち、国主は25家。
仙台伊達家の分家である宇和島の伊達家だけが、准国主です。
准国主(国持並)は国主大名に準ずる領土、官位を有する大名のこと。
もちろんこれらの大名は、全員城持ち大名でした。
城主(城持大名)
1万石以上の領地を持ち、「城」を持つことを許された大名のことです。
上の「徳川幕府諸侯格式一覧表」によると、5万石以上10万石未満の大名46家のうち、佐賀県小城の鍋島加賀守は73,000石、同蓮池の鍋島甲斐守も52,000石の大名ですが、二人とも城主格ではありません。
恐らく、佐賀鍋島家の分家だからと思われます。
しかし、越後の新発田の溝口主膳守は5万石の大名で、どこの分家でもありませんが城主格ではないですね。
新発田には城があったのですが、家格制度が確立する前の築城だったからでしょうか。
2万石以上5万石未満の大名80家のうち、城主格は56家です。
津和野の亀井隠岐守43,000石も分家ではないのですが、この表では「城主」に格付けされておりません。
1万石以上2万石未満の大名92家の中での城主格の家はわずか14家しかなく、田原12,000石の三宅備後守だけが準城主格です。
1万石の越前敦賀の酒井飛騨守は、10万3,000石の小浜の酒井若狭守の分家でありながら、城主格で「城」を持つことが許されていました。
ちなみに、この表の1万石大名48家は、その多くが分家です。
そのうち城主格は奈良柳本の織田筑前守と、先程紹介した敦賀の酒井飛騨守の2家だけ。
織田筑前守は、奈良芝村の1万石の織田摂津守の分家で、本家はなんと城主格ではありません。
しかし、『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 ―歴代藩主でたどる藩政史― 』によると、新発田の溝口家も津和野の亀井家も城主と書かれています。
時代によるものか、どちらかが間違っているのか、この違いがどこからくるのか、私にはわかりません。
格城主(城持並)
築城を許され、居所を「城郭」と公称することを許された大名です。
この表では鶴岡の17万石格酒井左衛門尉家と、吉田の7万石松平形部大輔家のふたつだけです。
戦国時代の諸国の領主は、戦いのために多くの城を築きました。
豊臣秀吉が天下を統一した時代には、まだはっきりとした家格制度はなかったようで、勝手に城を築けました。
全国の大名の家格をまとめ、家格段階制度が確立したのは徳川時代になってからのことのようです。
全国を統一して絶対的な権力、命令権がないとできないことですからね。
元和元年(1615)に公布された「一国一城令」により、大名は自分の居城以外の城の破却が命じられます。
研究者よると、次に出された「武家諸法度」に大名家格制と思われる字句がみられ、それを踏襲した三代将軍の家光が出した寛永6年(1629)の法度にも見られるので、大名の家格制度は元和、寛永頃に成立したものと考えられています。
三代将軍家光の時代までは、何かと理由をつけて、改易、移封が頻繁に行われ、諸大名の弱体化が行われました。
「武家諸法度」によって、徳川幕府の許可なく、築城はおろか城の修理も勝手にはできなくなり、許可なくやれば、広島城の福島正則のように改易されてしまいます。
「城主格」の大名以外の城主
城を持つことが出来た「城主」格大名以外に、徳川幕府から御三家の監視のために遣わされた「付家老」は、自分の城をもっていました。
主な付家老を紹介すると、尾張徳川家の付家老・成瀬家は犬山35,000石を領し、犬山城主でした。
紀伊徳川家の付家老・安藤家は、38,000石を領し紀伊田辺城主でしたし、同付家老水野家は、35,000石の紀伊新宮の城主でした。
付家老は、もちろん「徳川幕府諸侯格式一覧表」には掲載されていません。
また、仙台伊達家の仙台城の支城白石城や秋田の久保田城の支城横手城なども徳川幕府に認められた城でした。
領主(無城)
1万石以下の領地しかない領主は城を持つことは許されず、陣屋を構える大名です。
また、上で見てきたように1万石以上の領地があっても「城主」格でなければ、「城」を持つことは許されていません。
私の住む池田市周辺を領していた麻田藩1万石の領主・青木家は、豊中市の蛍が池付近に陣屋を構えていました。
今は、陣屋跡の石碑があるだけです。
下の画像は、2万石大名の柏原陣屋御殿ですね。
城と陣屋の違いは、徳川幕府の老中たちの詮議で決められていたようです。
しかし「武家諸法度」や事例によると、戦闘時に即応できるような高い石垣や区画ライン以上の水濠や空堀の構築、二重の隅櫓、櫓門などを造ることは許されていません。
曲輪は基本的に単郭(曲輪が一つだけの城郭)です。
江戸時代を通じて領主であった、2万6千石の園部藩の小出家は城主格ではありませんでした。
しかし、京都守護を名目に明治元年になって初めて櫓門と二重の隅櫓(巽櫓)の建築を許され、念願の「城主」格大名になっています。
現存している櫓門と隅櫓のある、園部「城」になったわけですね。
「徳川幕府諸侯格式一覧表(慶應年間排列)」を読み解きながら考えると、江戸時代後期に「城主」と格付けされた大名163家の城と御三家の城、付家老の城、江戸城、大坂城、二条城、駿府城、甲府城など徳川幕府の城、さらに、仙台伊達家の仙台城の支城白石城や秋田の久保田城の支城横手城なども、徳川幕府に認められた城でした。
そういった城などを加えると、大体180ぐらいの「城」があったのではないか、と私は勝手に思っています。
【参考文献】
中山良昭編著『もう一度学びたい日本の城』(西東社 2007年7月15日発行)、『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 ―歴代藩主でたどる藩政史― 』(新人物往来社 1997年8月26日発行)、『別冊歴史読本 入門シリーズ 日本城郭大事典』(新人物往来社 1997年6月27日発行)、奥平昌信「徳川幕府諸侯格式一覧表(慶應年間排列)」(中津城文化保存会、昭和46年10月31日発行)、「江戸(嘉永)時代大名紋章及城郭図」(望月アート企画室発行)他
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