
*備中高松城とは?

備中高松城は、羽柴秀吉の「水攻め」であまりにも有名な城ですね。
かつては城の周囲が沼地に守られた堅固な水(沼)城でした。
秀吉は、この備中高松城の水攻めの最中に、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたことを知り、援軍に来ていた毛利軍と急遽和睦し、「中国大返し」といわれる速さで姫路城へ帰ります。
山崎の戦いで明智光秀を破り、天下取りへの道を走り始めることになります。
備中高松城は、「続日本100名城」(第171番)に選定され、国の史跡にも指定されています。
1999年11月28日に初攻城、2025年9月26日に再攻城しました。
備中高松城址資料館

備中高松城址探訪の前に、備前高松城址資料館(月曜日休館)を訪れて、高松城や羽柴秀吉の「水攻め」など、いろいろと学びましょう。
備中高松城の周囲の地形は、往時とはすっかり変わっていますが、城址公園として整備されています。
*備中高松城の歴史(築城から廃城まで)

備中高松城は、備前の宇喜多氏を抑えるために、備中松山城主三村元親の命令で、家臣の石川久弐(ひさのり)が築城したとされています。
永禄年間(1558~70)に築かれたようです。
石川久弐が、毛利氏に滅ぼされると、娘婿で毛利氏方だった清水宗治(むねはる)が城主となり、毛利氏の有力武将小早川隆景(たかかげ)に従っていました。
この頃の備中は、毛利、宇喜多、尼子の勢力が入り乱れ、抗争を繰り返していました。
備中を掌握した毛利氏は、備前との国境、北は冠山から南庭瀬(にわせ)に至る数キロに七つの城を配して防衛線とします。
「境目(さかいめ)七城」といわれる城郭群で、備前高松城はその中核的な城です。
備中高松城は、足守川流域の低湿地帯に築かれ、微高所に方形の本丸を置き、本丸の南東方向に二の丸、三の丸を配していました。
築城当時は、水が満ち溢れた沼に取り囲まれる浮城のように見えたようです。
また、これら三つの曲輪を包み込むように東側に、家臣の屋敷が置かれた外曲輪、北曲輪を置く梯郭式のような縄張りであったと推定されています。
城の周囲が沼地で、外側を足守川が守り、城の橋が落とされると兵は城に近づけない要塞堅固な城郭ですね。

「天下布武」の旗印のもと、全国制覇を進めていた織田信長は、天正5年(1577)から中国地方制圧に進出します。
その総大将に任じられた羽柴秀吉は、三木城(当ブログ記事・気ままにぶらっと城跡へ⑩)と鳥取城(当ブログ記事・第98回)を「干殺し」で落とし、天正10年に、2万余の軍勢で毛利氏征伐のため備中に攻め込みます。
境目七城をつぎつぎに落城させ、ついに備中高松城を包囲します。
籠城している城兵はわずか5,000人だったそうで、城主の宗治は城外への橋を落として守備を固めます。
二度の強襲が失敗し、秀吉は、力攻めでは高松城は落とせないと気づきます。
水に守られた城を逆手に取り、秀吉の本陣石井山の南麓の蛙ケ鼻(かわずがはな)から、城を中心とした低湿地帯を囲むように、足守川まで堤防を築きました。
これは、一説には秀吉の軍師黒田官兵衛の献策によるものといわれています。
基底部幅が約20m、高さ約7mの堤防を、高松城を囲むように約3kmにわたって築き、足守川の水を引き入れ、水攻めで高松城を陸の孤島にする作戦でした。
秀吉は、付近の農民に土俵ひとつにつき銭百文と米一升を支払い、この大規模な土木工事を突貫工事で進め、わずか12日間で完成させます。
季節は5月下旬で、折からの雨で城の周囲は徐々に水没していき、やがては湖となり、わずかに本丸のみが小島のように残るだけとなりました。
城兵はすべて本丸に集まります。
救援のためにきた毛利の大軍も、これでは秀吉軍の囲みを破って城に入られません。

戦線は膠着状態が続き、手の打ちようもない。
城兵の士気も衰え、食料も不足してきたため、宗治は自分の命と引き換えに城兵の命を助けることを条件にして和睦を提案、秀吉に受け入れられます。
こうして、備中高松城は落城しました。
その後、宇喜多秀家の重臣花房正成(まさなり)が入城し、大改修をします。
関ヶ原の戦い後は、陣屋として徳川家康の旗本花房職之(もとゆき)が在城、元和年間(1615~23)に陣屋移転にともない、廃城となりました。
備中高松城址資料館には、1985年6月25日の大雨の時、高松城本丸のあたりだけを残して、周囲が水没した時の写真が展示されています。堤防が無くても、大雨が降れば、備中高松城周辺は水没する低湿地帯だということが、良くわかりました。
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*備中高松城|現存する遺構・見どころ





備中高松城本丸から1kmほど南東の蛙ケ鼻近辺にその堤の一部が遺構として残存し、高松城址とともに国の史跡に指定されています。
今は、堤に樹木が繁り、その高さなどが実感できないのが残念です。
下は、繁る前の写真です。
岡山市は是非伐採などをして、築堤址が分かるようにして欲しいものです。

この築堤による水攻めは、たんに高松城を攻略するためだけではなかったようです。
日本実業出版社の『読んだら話したくなる日本の城』(中井均・著)によると、援軍にくる毛利軍との戦いにおいて、戦場を水没させることによって、毛利軍がその大軍の力を発揮できないようにし、高松城の救援を諦めさせる目的もあったようです。
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また、毛利との和議の後、「中国大返し」の時、秀吉は堤防を切り崩して巨大な氾濫地帯を作り、毛利軍の反撃をさせないようにしています。


自らの命と引き換えに、城兵の助命を約束させ、秀吉と講和した城主・清水宗治自刃の地の供養塔です。
清水宗治は、秀吉が用意した小舟に兄の清入道などと乗り込み、「誓願寺」(舞)を舞った後、辞世の句を詠んで切腹したそうですよ。
辞世の句は「浮き世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して」でした。
秀吉は、宗治が家臣・領民に信望の厚かったことを知り、宗治の首実験のときに「古今武士の鑑(かがみ)」と褒め、手厚く葬らせたと今に伝えられています。
三の丸址の東にある妙玄寺の境内に、昭和38年(1963)に供養塔が建立されました。


宗治の切腹の後、秀吉が家臣に供養塔をつくらせ、その供養塔が首塚です。
当初は秀吉の本陣があった石井山にありましたが、明治になって本丸に移されました。
毎年6月の第一日曜日に、首塚の前で地元保興会によって「宗治祭」が開催されているとのことです。

本丸址から少し西北にある民家の一隅に「清水宗治胴塚」があります。
切腹のあと、家臣が船で城内に運び、宗治の遺体を埋めたので「胴塚」といいます。
【おまけ】
この備中高松城の水攻めのとき、石田三成は秀吉に随行していました。
秀吉の小田原の北条氏攻めに際して、秀吉は加藤清正など武闘派の武将たちから馬鹿にされていた三成に、2万の軍勢をつけて武功を挙げさせようとします。
三成は、小田原城の支城である忍(おし)城(埼玉県行田市)を攻城するも、「浮城」といわれた城は容易に落城しません。
それで、三成は備中高松城と同じように土手を築いて忍城を水攻めにします。
しかし、もう少しというところで、城代を慕う領民によって堤が破られて水攻めは失敗しました。
これを題材にした2012年封切りの「のぼうの城」という映画は、大変面白いものでした。
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( by:photo-ac )の表記のない写真は、筆者撮影です。
*備中高松城詳細
・アクセス:備中高松城跡(高松城址公園・資料館)まではJR吉備線「備中高松駅」下車、徒歩10分 / 岡山自動車道「岡山総社Ic」から車で約10分。
・営業時間:公園は24時間、資料館は10:00~17:00
・休業日:公園は無休、資料館は月曜日と年末年始
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【参考文献】
公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラ
ス 2018年5月7日第6刷発行)、平井聖監修『城 6 中国 甍きらめく西国
の城塞』(毎日新聞社 平成8年11月25日発行)、『城』及び『城 解説編』(日
本通信教育連盟、)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、小和田哲男監
修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日 第1版第1
刷発行)、中井均監修『超雑学 読んだら話したくなる日本の城』(日本実業出版
社 2010年6月20日初版発行)、「日本史のターニングポイント 高松城水攻
め」(岡山市 2025年6月)、「備中高松城址資料館」パンフレット(高松市)他
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