日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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気ままにぶらっと城跡へ㉟三重県の田丸城へ行ってきた

田丸城

「気ままにぶらっと城跡へ」の第35回目は、三重県度会(わたらい)郡玉城(たまき)町にある田丸城です。

 

 

*田丸城とは?

田丸城は、南北朝時代に伊勢に降った北畠親房(ちかふさ)が、伊勢地方における南朝方の拠点城として、延元元年(建武3 1336)に玉丸山と呼ばれていた丘の上に築いたと伝わっています。

「南伊勢随一の名城」といわれる平山城です。

天正3年(1575)には、北畠氏の養子となった織田信長の次男信雄(のぶかつ)が修築します。

以後城主が何人か変わり、元和5年(1619)以降は紀州徳川家の所領となり、付家老の久野宗成(くの むねなり)が城主を務め、久野家で明治を迎えます。

別称は、玉丸(たまる)ですね。

「続日本100名城」(第154番)に指定されています。

2003年10月26日に初攻城、2025年7月1日に再攻城しました。

 

*いざ、田丸城へ

JR参宮線田丸駅前にある熊野古道伊勢路出立の地モニュメント

大手門前の大手門橋

写真は外濠に架かる大手門橋です。

正面の石垣は大手門址石垣で、大手付近の虎口は大型石材が多く使われています。

大手口は内桝形で防御力を高めていました。

入って右は、朝日新聞創設者村上龍平(りょうへい)の生誕地として村上氏を顕彰し建てられた記念館で、左側には玉城町役場があります。

大手門址の大型石による石垣

 

*田丸城の歴史と登城感想

田丸城は、大和と伊勢を結ぶ初瀬街道、熊野と伊勢を結ぶ熊野街道の合流点、江戸時代には伊勢本街道と呼ばれる交通の要衝を制する玉丸山に築城されています。

北畠親房が築いた田丸城は、15世紀後半、後に田丸氏を名乗る愛洲(あいす)氏が城主となりましたが、天正3年に織田信雄が堅固な城として築き直し、大河内城から移ってきます。

しかし、天正8年に田丸城は放火による火災で焼失、信雄は北畠具教(とものり)が築いた松ヶ島城に移ります。

その後、田丸氏を経て、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、稲葉道通(みちとお)が戦功により加増され、50,000石で移封してきました。

そして、稲葉氏が田丸城を大修築。

このときに再び天守が建造されたようです。

元和2年(1616)の稲葉氏転封後は、一時期、津藩藤堂氏の属城でした。

街道の起点場所に設置されている説明板

隅部はほぼ算木積みとなっている打込接の石垣

元和5年(1619)には紀州藩が設置され、家康の十男・徳川頼宣(よりのぶ)が初代紀州藩主となっています。

この際に田丸城は、御三家紀州藩の飛び地領となります。

田丸城には紀州藩付家老の久野宗成が城主として配され、以後代々久野氏が城主を務め、幕末を迎えました。

 

【付家老とは】

江戸時代初期、将軍徳川家から大名となった御三家などに、徳川将軍から直接の命令を受けてその大名に付属された家臣のこと。身分としては、藩主の家来というよりは徳川将軍直属のお目付け役という性格がつよい。付家老としては、尾張徳川家犬山城城主成瀬家などが有名ですね。

 

田丸城縄張図(「旧三の丸御殿奥書院(復元)」パンフレットより)

織田信雄の時代、田丸城は山上に本丸、二の丸、北の丸が置かれ、本丸には三重の天守が建てられたようです。

稲葉氏は、田丸城の大改修を行い、本丸に再び天守を建造します。

長方形の本丸の北側に空堀を隔てて北の丸、そして南側には二の丸が置かれ、東側に一段低い三の丸が配置されて、御殿を建造していました。

本丸には三重天守の他に多聞櫓、隅櫓が、二の丸には四隅に櫓が建造されていたと「田丸御城絵図目録」に記述されているそうです。

しかし、明治になって紀州家への「返上目録」には、三の丸御殿の他には門八カ所の記載があるだけらしいのですよね。

慶安2年(1649)の風雨により天守が崩壊した記録が残っていることから、石垣などの修理はされたが、櫓など建造物は修繕されず放置され、城としての機能は重視されなくなったと考えられます。

大手口は、三の丸の東側で、周囲は水濠で囲まれていました。

上の図でも桝形になっていることが確認できますね。

本丸の北側には、穴蔵(地階)のある天守台があります。

右に曲がって行けば北の丸、正面は本丸の石垣、その上の石垣は天守

北の丸側から見た本丸石垣 手前は野面積み

田丸城の石垣は、場所によって野面積み、打込接ぎ、切込接ぎなどの様ざまな方法によって築かれています。

これは、田丸城が戦国時代から江戸時代を通じて使用され、修繕が繰り返されたためで、石垣の勉強にはもってこいの城址だといえますね。

本丸虎口の打込接ぎの門址石垣

本丸虎口(桝形) 正面の石垣には鏡石状の大型石が使われている

本丸 奥に天守台がある

天守

内部に穴蔵(地下)をもつ古い形式の天守台で、遺構からは南側には付櫓が連結していたように考えられます。

村上龍平記念館内に展示されている「復元天主模型」(下の写真)とはおそらく異なった形をしていたのではないかと推測できるのですが、実際はどうだったのでしょうか。

穴蔵(地下一階)のある天守台 玉城町が一望できる

「伊勢田丸城復元天主模型」(「村上龍平記念館内展示」

二の丸から本丸への虎口(桝形になっている)

二の丸から本丸への土橋(右)手前は空堀、正面は本丸石垣

北の丸 城山稲荷社がある

北の丸の土塁

搦手道 正面は二の丸の石垣

搦手口に建てられている田丸城標

田丸城址は、中世および近世初期の城郭の構造を残す貴重な城址です。

現在は城山公園として整備され、天守台、石垣、土塁、濠の一部が遺構として良好なまま残っています。

天守台からは玉城町の町並みが一望できるうえに、春は桜の名所として町の人びとの憩いの城址として親しまれています。

富士見門

昭和59年(1984)に、乙部家に移築されていた富士見門を城址に移築復元しました。

また平成3年には、廃城時に民家に払い下げられていた三の丸御殿奥書院が外曲輪代官跡に移築復元されています。

三の丸御殿奥書院

外濠

大賀ハスが植えられた中濠

日本100名城スタンプ(村上龍平記念館内にあります)

(写真は筆者撮影)

 

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【参考文献】
公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラ
ス 2018年5月7日第6刷発行)、平井聖監修『城 4 東海 天下人への夢馳
せる群雄の城』(毎日新聞社 平成8年12月25日発行)、西ヶ谷恭弘編『国別
城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、小和
田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日 第
1版第1刷発行)、「三重県指定文化財・史跡 続・日本百名城 田丸城跡」(玉
城町教育委員会 2024.12)、「旧三の丸御殿奥書院(復元)パンフレット」(玉
城町教育委員会 2024.8)他