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今回は、姫路城の「ぬの門」と「りの二渡櫓」が2月中特別公開で初めて公開されるという新聞記事を読んだので、2021年の2月25日に姫路まで行ってきたときのお話です。
本当に久しぶりの姫路城でした。
写真は筆者の花ちゃんが撮影したものです。
なお、この記事にたま~に小文字の太文字でコメントがあるのは、黙っていられなかったお城ブログ管理人のツッコミです。
悪しからずご了承ください。
※こちらの記事もどうぞ!参考にしてください。
天守への観光客の進入路が、以前行ったときとは異なっていました。
何か所で修復工事をしていたのでその為なのかもしれません。
確か私が以前姫路城に登城したときは、「ほの門」をくぐって真直ぐ行き、腰曲輪の米や塩などの食料を貯蔵する塩櫓の前を通ってぐるっと天守を回りました。
それから「への門」から「ちの門」「備前門」を経由して、備前丸(本丸)に設置された臨時の階段を上がり、「水四門」から「水五門」を経て連立式天守の中庭へ。
やっと大天守の入口に着くという順序でした。
しかし今回は「ほの門」から「水一門」に入り、「水二門」「水三門」「水四門」「水五門」と本来の登城ルートで大天守の入口に行きました。
「水」の門を通るルートを行くと、狭い道が段々下がり、これが本当の天守への道なのかと疑いたくなります。
攻城している敵を心理的に混乱させるためでしょうね。
また門と次の門の間隔が狭く、たとえ敵が侵入してきても、それぞれの門の前の狭い空間で留まらせた敵を攻撃し、壊滅させるように工夫されていることが良く理解出来ました。
大天守の地階には、目視は出来ませんでしたが三つ並んだ厠(トイレ)が2か所、そして大きな流し台があります。
連立式天守の中庭には台所櫓、そして「ロの渡櫓」には深さ15mの井戸。
また城内には他に11か所もの井戸が掘られており、さすがに籠城の設備には抜かりがありません。
そして各階の内側壁面には、火縄銃や弾薬袋を掛けたものと思われる竹釘や武具掛けが備えられています。
それらが最上階を除く、ほとんどすべての階やいろんな場所に備えられているのですね。
もしこれらの武具掛けすべてに鉄砲や槍などの武具が備えられていたとしたら、驚くべき数の武器が用意されていたことになります。
さすがに大坂城と西国大名の間にあって、来るべき大きな戦に備えていたかがわかります。
ここまで天守の内部に武器を備えていた城を私は知りません。
さて、いよいよ「ぬの門」「りの二渡櫓」の見学です。
姫路城入場券以外に観覧料300円を現場で支払って入城しましょう。
「ぬの門」は、姫路城最大の櫓門であり唯一の二重櫓門です。
現存するものとしては姫路城だけですので、とても貴重な遺構であることがわかりますよね。
通常観光客は背面から潜り抜けて出口に向かいますので気がつきにくいのですが、正面からみると一重目の左右の鉄格子窓と二重目真ん中の出格子窓の配置が美しい調和をみせています。
一重目の入口は写真の右側にある木の柵のところです。
内部には階段がないので、二重目に入るためにはいったん外に出て、一重目の入口を正面の方に回ったところにあります。
左側の臨時の階段は「りの二渡櫓」への入口でした。
外来者を迎える威儀を充分に意識しての造りが半端ではありません。
門扉は鉄板張りです。
「ぬの門」は、「いの門」を入って三国濠のある曲輪から上山里曲輪へ入る関門です。
下の写真で分かるように、「ぬの門」の一重目の格子窓からは「いの門」から入ってきた敵を正面から狙い撃ちが出来ます。
門扉の上には「隠し石落とし」が設けられています。
扉を壊しに来た敵を上から簡単に攻撃可能です。
「ぬの門」の西側に接する櫓が「りの二渡櫓」です。
二階建ての建物で、一階の城外側は石垣が築かれ、室内は穴蔵となっています。
江戸時代の後期には火薬の原料「苧殻(おがら)」を貯蔵していたそうですよ。
三回の大修理の時の、天守大棟の三つの鯱瓦が展示されていました。
「りの二渡櫓」については説明板をご覧ください。
「菱の門」に向かう敵や「菱の門」を突破し、埋門(うずみもん)である「るの門」に向かう敵を、ここで狙い撃ちできるようになっています。
今回ゆっくりと探訪しましたので、今まで気づかなかったことをいくつか発見しました。やったね!
たとえば、姫路城にも結構転用石が使われていたということです。
「はの門」の右端の柱の礎石には灯篭の台石が、「備前門」の隅石には古墳時代の石棺が転用されていました。
それと「ぬの門」の前の石垣は、平面は打込み接ぎですが、隅石は算木積みで「扇の勾配」の美しい石垣になっています。
また、それぞれの門の瓦の先端には実に多くの文様が施されていることに気づきます。
残念ながら見とれてしまって写真を撮るのを忘れてしまいました。そんなんばっかやな。
文様の内容は歴代の城主の家紋。
たとえば池田氏の揚羽蝶紋や桐紋、本多氏の立葵(たちあおい)紋、榊原氏の源氏車(げんじぐるま)紋、酒井氏の剣片喰(けんかたばみ)紋などですね。
一つの門に1種類の紋だけなら、その門の建造時の城主の門と理解できますが、「水二門」だった(と思います)には数種類の家紋瓦を使っています。
これはどういう意味があるのか分かりません。
わざわざ何種類かの家紋瓦を焼いて使ったのでしょうか?
それとも修理の時に以前の家紋瓦を寄せ集めてきて造ったのでしょうか?
黒田勘兵衛の時代の姫路城石垣です。
野面積みで、いかにも古さを感じますね。
4時間余りの姫路城探訪を楽しんだあと、姫路駅前にある「ちょい呑み播州酒場」で休憩を兼ねて昼飲みをしました。
新しい大きな酒場で、姫路名物とメニューに書いてあった穴子串、炙り〆鯖、ひねポンを注文、ゆっくり飲みながら久しぶりの遠出の余韻を楽しみました。
また、行きたいなあ、早くコロナ禍が収まりますように、と祈らずにはおれません。※こんなこと言ってますが、彼は家族親戚の中で恐らく一番外出しまくっています。どの口がいうんや、とツッコミたい。
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【参考文献】
姫路城パンフレット、寺林峻編・北村泰生写真『姫路城遊歩ガイド』(神戸新聞総合出版センター 1994年5月10日第2刷発行)他
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