日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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お城大好き雑記 第44回 大和郡山城

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奈良県大和郡山城 by:photo-ac

44回目になりました。

奈良県大和郡山城です。

今回久しぶりに訪れたので、一番最初の写真以外は自分で撮りました。

見にくい箇所ありましたら申し訳ないです!

 

大和郡山城の正式名称は郡山城

別称は犬伏いぬぶしです。

2017年「続日本100名城」(第165番)と、「日本さくら名所100選」に選定されています。

1998年7月23日に初登城。

それ以後も何度か登城していますが、今回本丸への極楽橋が再建され、天守台の修理が終了したという新聞記事を読んだので、改めて2021年3月26日に登城してきました。

「お城まつり」は始まったばかりでしたが、桜がほぼ満開だったので結構な人で賑わっていました。

ここにはソメイヨシノや八重桜など、約800本の桜が植えられていますよ。

 

ではまず、歴史から簡単に。

織田信長は、天正5年(1577)に大和の覇者・松永久秀を滅ぼすと郡山城を除く大和の他の城を完全に壊し、筒井順慶(じゅんけい)に大和を支配させます。

中世以降、奈良南都では寺社の武力集団が武家勢力にとっては脅威でした。

この武力勢力を抑える意味でも郡山城の築城は重要だったのですね。

代々の居城であった筒井城から郡山城に移った順慶は、天正8年から大々的な築城工事にかかります。

この築城には明智光秀が目付としてかかわり、縄張りは光秀が行ったそうです。

郡山城は福知山城と似た構えをしているだけでなく、野面積みの石垣で石塔や石地蔵などの転用石が多用されている点も似ています。

光秀は息子を順慶の養子に入れていたので、山崎の合戦のときには当然順慶は光秀の味方をすると思われていました。

しかしそうしなかったんですよね。

そのため光秀は洞ヶ峠で順慶に味方するように強要しましたが、それでも順慶は動きませんでした。

なんというか…腹が据わっているのか頑固なのか、わからない人ですね。

後世、俗に「順慶の洞ヶ峠」という日和見の代名詞となりました。

有名なお話ですよね。

当然ながら、順慶は秀吉からも叱責を受けます。

しかし名物茶器を献上してようやく許され、翌11年には天守を築いたと言われています。

順慶が没してから、天正13年に秀吉の異母弟・豊臣秀長が入城します。

秀吉によって大和だけでなく和泉、紀伊を合わせた100万石を与えられた秀長は、身分にふさわしい城郭とするために城の改修・拡張をするとともに、城下町の整備を行います。

奈良から商人や職人なども移住させ、郡山の城下町を発展させました。

しかし秀長の死後、養子の秀保(ひでやす)も急死して断絶。あらまあ!

豊臣家に代わって、秀吉の五奉行の一人である増田長盛(ました ながもり)が入城。

長盛は城下全域を取り込む惣構えを構築し、城郭と城下町の整備を進めます。

しかし、長盛は関ケ原の戦いで西軍に与したため改易。

残念ながら一時城は廃城となって荒廃していたようですが、大坂夏の陣後、6万石で入封した水野勝成(かつなり)によって縮小した規模で復興されました。

その後徳川譜代の大名が城主を勤め、享保9年(1724)柳澤吉里(よしさと)が甲府15万石から郡山藩藩主として転封してきます。

以後、柳澤家15万石の居城として明治を迎えました。

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郡山城は西ノ京丘陵の南端に位置し、本丸と二の丸、二の丸の東西に三の丸が配置される輪郭式縄張りです。

そして本丸を囲む内濠、二の丸を囲む鰻堀池、鷺池、蓮池、五軒屋敷池と呼ばれる中濠、さらに城下町を囲む外濠を構えた大城郭の平山城ですね。

豊臣秀長が100万石の城ふさわしく大改修したときに、本丸や二の丸、三の丸など城郭の主要な部分が完成したと考えられています。

松平忠明(ただあき)が城主の時に二の丸に御殿が造営されたと言われ、幕末までそこが城主の居所となりました。

現在はその跡に、奈良県進学校として有名な県立郡山高校があります。

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追手櫓門

昭和58年(1973)に再建された本丸入口の櫓門である梅林門(追手門)。

二重二階の追手向櫓(下の写真)は昭和62年に再建されました。

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追手向櫓と多聞櫓

櫓門と多聞櫓、追手向櫓で桝形を作り、本丸入口の防御力を高めています。

二の丸への入口である鉄門から本丸へと陣甫郭を進んでくる敵を、追手東隅櫓と追手向櫓、それに連結している多聞櫓から狙い撃ちできるのです。

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追手東隅櫓

本丸への極楽橋は令和3年2月に再建されました。

まだ木が新しくて奇麗ですね。

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再建された極楽橋

郡山城天守は本丸の北端部に位置しています。

高さ8.5mの南北に少し長い長方形の天守台に、高さ4.5mの付櫓台が取り付いている複合式の天守だったと考えられます。

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本丸高石垣と天守台石垣

じつは、郡山城天守は存在しなかったのではないかと昔は言われていました。

それは絵図や文献に天守の存在を証拠づけるものがなかったためですね。

しかし平成25年(2013)度から、崩落のリスクがあった天守台の石垣の修復と展望施設の整備を行うために発掘調査を開始。

そのときに天守の礎石列や金箔瓦などが発見され、豊臣政権期には確かに天守が建てられていたことが確認されたのです。

 

そして平成29年には「郡山天守台展望施設」が完成。

この天守台修復工事中に、野面積み天守台石垣の中からたくさんの転用石が発見されました。

これは奈良には良質な石材が乏しかったために、築城に際して奈良一帯の各戸(寺社を含む)に石材の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用されたためです。

石垣の中には平城京羅城門のものであると言われている礎石が使われていたり8世紀頃の仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏までもが発見されています。

 

また、築城にあたって、大和の宗教勢力に対して新領主の力を誇示するためにこのようなことが行われたとも言われています。

不本意な姿を見せている石仏などは、天守台石垣が修復されるまでの間は地元の人々が石仏や地蔵を並べ置いて信仰の対象とし、線香や花を手向けていました。

修復工事が終了した後は、きれいに整理され説明板が設置されています。なかでも天守台北面石垣の築石としてさかさまに突っ込まれている「逆さ地蔵」が有名ですね。

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さかさ地蔵について説明する案内板

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天守台からの奈良市方面の景色 正面左の禿げた所が若草山

 

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本丸には、明治30年(1880)に旧藩士によって創建された柳澤神社があります。

祭神は柳澤藩の開祖・柳澤吉保公です。

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柳澤神社

また同じく柳澤藩の諸記録、郷土資料など保存展示している柳澤文庫があります。

今回登城したときは「郡山城図に見る郡山城の変遷(後半)」の展示中で、大変貴重な資料を見ることができました。

また、同時に天守台石垣修繕に関する発掘調査から石垣解体修理の過程をつぶさに記録したDVDをゆっくり見ることができたのは、大きな収穫でした。

 

金魚の町で有名な郡山。

そもそもは柳澤吉里公が甲斐国(今の山梨県)から移封されたとき、鑑賞用に持ってきたのが始まりだそうです。

観賞用に飼育することが武士に奨励され、後にそれが藩士の内職となりました。

維新後は民間にも養殖事業が普及して、今日「金魚の町郡山」と言われるようになりました。

下の写真は近鉄郡山駅前にある交番。

二重二階の比翼千鳥破風と格子窓、海鼠壁を持つ白漆喰総塗籠の櫓風建物です。

粋なことをしますね。

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近鉄郡山駅前交番

また郡山には金魚が入った公衆電話もかつてはありましたが、現在は撤去されています。

 

大和郡山城詳細

・住所:奈良県大和郡山市城内町

・アクセス:近鉄郡山駅から徒歩で約10分

・営業時間:24時間

・休業日:年中無休

 

【参考文献】

平井 聖監修『城 5 近畿 華と競う王者の城』(毎日新聞社 平成8年9月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2018年5月7日第6刷発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、「郡山城パンフレット」他