日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

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お城大好き雑記 第41回 山形城

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山形県 山形城址 by:photo-ac

41回目は山形県の山形城です。

東北の大大名・最上義光(もがみ よしあき)が、天塩にかけて築城した東北きっての大城郭!

57万石ですが、豊かな穀倉地帯の恵みを背景に「最上100万石」と謳われるだけの威容を誇った平城ですね。

別称は霞ケ城(かすみがじょう)です

これは上杉景勝の謀将・直江兼続(なおえ かねつぐ)に攻められたとき、山形城が霧の中に埋没して直江軍の陣地富上山から見えなかったことからだそうです。

そして、霞城(かじょう)ですが、同じ意味ですね。

さらに吉字城もあります。

日本100名城」(第10番)に選定されたのは2006年です。

 

山形城は、山形市の西部、馬見ケ崎(まみがさき)川の扇状地にあります。

南北朝時代室町幕府より奥州の南朝勢力駆逐の命を受けてこの地に入った、斯波兼頼(しば かねよりにより築かれました。

このとき築かれた山形城は、のちの本丸程度の城郭であったと推測されています。

斯波氏は地名をとって最上氏を名乗ります。

11代目の当主・義光山形藩初代藩主)は機略に富んだ武将でした。

上杉氏や奥州の覇権をめざす伊達政宗と競いながら、豊臣秀吉徳川家康の信を得ます。

関ヶ原の戦いでは上杉景勝(かげかつ)と戦って軍功をたて57万石の大大名にのし上がり、俗に「最上100万石」と言われるまでになります。

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最上義光像 by:photo-ac

義光が山形城の大修築・拡張し、城下町を整えることに着手した年月は明らかではありませんが、文禄年間(1592~95)だろうと言われています。

しかし残念ながら義光の死後は一族の内紛が絶えず、元和8年(1622)孫の義俊(よしとし)のときにお家騒動の咎で改易になります。おじいちゃんが泣いてるぞっ!!

最上家のあとには、鳥居忠政(ただまさ)が24万石で入封。

城郭を再び大改修して現在の形に整えます。

その後目まぐるしく城主が交代し、実に11家が城主となりました。

しかしその度に禄高が減少、幕末を迎えた水野氏に至ってはわずか5万石でした。

もとは日本国内で5番目の広さを誇っていたのですが…。悲しいですね。

その間城の改修はほとんど行われることがなく、義光時代の壮大な城郭は次第に荒廃していきました。

明治維新後は旧二の丸に歩兵32連隊の本営が設置され、残存土塁を破却、本丸濠を埋め立てて連隊敷地として造成されています。

 

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私が山形城へ登城したのは、2003年7月20日です。

山形城は平城であり、本丸、二の丸、三の丸と濠が巡らされた輪郭式の縄張りで全国有数の規模の城郭でした。

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出羽国最上山形城絵図」(内閣文庫蔵)『城 1 北海道・東北』(毎日新聞社)より

本丸は御殿のみで天守は建造されず、代用として二の丸に三重櫓を建てていたようです。

本丸の濠とともに埋められた石垣と大手橋が、平成18年(2006)に復元整備されました。

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復元された本丸一文字門と大手橋   by:photo-ac

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本丸一文字門石垣と大手橋 別方向から  by:photo-ac

江戸時代の石垣を築き直し、平成3年(1991)に復元された二の丸東大手橋を渡ったところに高麗門(正面)があり、櫓門と多聞櫓(右)で枡形を形成しています。

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二の丸東大手門      by:photo-ac

二つの多聞櫓と土塀で構成する枡形は、強固な門構えで実践的。

さらに、南北二つの多聞櫓は翼を広げたような特徴ある雄大な姿となっていて、白漆喰の塗込壁と燻し瓦のコントラストが周りの濠や樹木と調和しています。

この門の規模は江戸城の城門に匹敵するほどの規模です。

山形城の濠は、門や櫓の建築物の部分だけ石垣とし、それ以外の部分は土塁でした。

二の丸の打込接の石垣は殆ど当初の形のままで残っていて、精緻で優美、見事な石垣です。

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二の丸東大手櫓門    by:photo-ac

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二の丸側から見た櫓門と最上義光像   by:photo-ac

山形城は明治になって廃城となりますが、陸軍の兵営が置かれます。

明治39年(1906)には日露戦争凱旋記念に染井吉野が植えられ、現在霞城公園は桜の名所です。

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霞城公園の土手の桜並木   by:photo-ac

 

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【私の山形県秋田県の1泊2日8城巡りの旅】

2003年7月20日から1泊2日で、山形県秋田県の城・城址巡りをしました。

20日上杉景勝直江兼続を城代とした米沢城址をまず探訪。

上杉神社が本丸跡にあり、米沢藩中興の名君上杉鷹山公之像があります。

続いて昭和57年に三重四階の模擬天守が建造された上山城

そして山形城

最後に新庄城

最上公園となっている城址には、本丸虎口の枡形と表御門跡に立派な櫓門石垣や、土塁、水濠が残っていました。

翌21日には鯱を飾った立派な大手櫓門のある松峰(山)城址へ行きました。

土塁、水濠が遺構として残っており、荘内神社がある鶴ケ岡城址です

続いて秋田県に行って、石垣と立派な櫓門を備えた陣屋風の亀田城美術館の亀田城(現在は亀田城佐藤八十八美術館)、そしてすぐ隣に観光用に築城された三重三階の天鷺城(観光施設天鷺(あまさぎ)村)を探訪。

亀田城の大手門が復元され、史料館や武家屋敷、農家が移築展示されています。

天守のなかにはレストラン、売店がありました。

近くの山頂に天守らしいものがみえていましたので、観光マップを見ると高城山城址公園、天鷺ワイン城と書かれていました。

この地方にはよほど城好きの首長や実業家がいらっしゃるんだろうなあと思った記憶があります。

 

*山形城詳細

・住所:山形県山形市霞城町1

・アクセス:山形駅西口から徒歩で約8分、東口から徒歩約12分

・営業時間:4月~10月開城時間5:00~22:00/11月~3月開城時間5:30~22:00

・休業日:年中無休

 

【参考文献】

平井 聖監修『1 北海道・東北 吹雪舞うみちのくの堅城』(毎日新聞社 平成9年3月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ二』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)他

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