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106回目になりました!
今回は、富山県の富山城といきましょう。
富山城は、越中国(富山県)の富山平野のほぼ中央部に築かれた越中前田家の居城で、平城です。
越中前田家は加賀前田家の分家ですね。
この地は、古くから北陸街道と飛騨街道が交差する交通の要衝で、戦国時代から越中の有力土豪の争乱の場となっていました。
別称は安住城(あずみ)城、浮(ふ)城です。
「続日本100名城」(第134番)に選定されています。
私は富山城へ、2008年5月30日に登城しました。
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神通(じんづう)川(現在の松川)河口に広がる富山平野は、北陸地方最大の豊かな稲作地帯です。
この富山平野を押さえていた越中守護代・神保長職(じんぽ ながもと)が家臣の水越勝重(みずこし かつしげ)に築かせた安住の館が、富山城の前身といわれています。
天文12年(1543)の頃に築かれたと考えられていますよ。
永禄3年(1560)に上杉謙信に攻められ、長職は砺波(となみ)郡の増山(ますやま)城に逃れました。
その後一向一揆の軍に占領されたこともありますが、天正4年(1576)には上杉謙信の城となり、城将が置かれていました。
同9年に佐々成政(さっさ なりまさ)を越中守護に任じ、城主とします。
成政は越中を平定、安住の館を大改修し、富山城として築きました。
信長が本能寺の変で倒れると、成政は羽柴秀吉と敵対、秀吉方の前田利家とも抗争となります。
天正13年(1585)、秀吉は成政が籠城した富山城を7万の大軍で包囲。
成政は降伏し、富山城は廃城となりました。
天正15年に、成政は肥後隈本(熊本)に転封となり、越中は前田家の所領となります。
慶長2年(1597)からの2年間は、前田利長(としなが)が守山城から移り居城とします。
慶長10年(1605)に再び利長が入城。
隠居城として改修しますが、同14年の城下の火災により富山城は全焼してしまいます。
利長は新らたに築城した高岡城に移り、富山城はその後30年もの間放置されます。
寛永16年(1639)に加賀藩は、加賀・大聖寺・富山の三藩に分割。
加賀前田家三代の利常(としつね)の次男である利次(としつぐ)が、10万石富山藩の初代藩主として富山城に入城します。
寛文元年(1661)に、利次は幕府から築城の許可をとり、旧城を原型にして富山城を近世の城郭に完成させました。
また、城下町も整備します。
今日残っている本丸の石垣や水濠は、このときに築かれたものですね。
以後富山城は、明治維新までの13代続いた富山前田家の居城として存続しました。
2代藩主の前田正甫(まさとし)は富山の売薬を奨励したので、「越中富山の薬売り」として、全国に富山の名が知られるようになりました。
富山城は北側の神通川(松川)を天然の外濠とし、周囲を水濠と河川で二重に囲んだ後堅固(うしろけんご)の城。
いざというときには神通川と鼬(いたち)川を堰き止めて浮城にし、防御力を高められるようです。
ほぼ四角形の本丸の東側に東出丸を、西側に西の丸を置き、南側に二の丸、さらに東・西・南の三方を三の丸(総曲輪)で凹状に囲んだ梯格式の縄張りでした。
城門近くの石塁を除いて、ほとんどが土塁でした。
利次は、幕府から天守建造の許可は取っていました。
しかしどういう理由かわかりませんが、天守は築かれませんでした。
本丸に二重櫓が3基、南側に鉄(くろがね)門、東側に二重櫓門、二の丸の西側に二重櫓門をそれぞれ設置。
二重櫓門は桝形となっていたようです。
三の丸の三方にも桝形を築くも、櫓門は建てられませんでした。
正徳4年(1714)の火災で本丸が全焼したため、以後藩主は東出丸を仮住まいとします。
ところが、117年後の天保2年(1831)の火災では東出丸などが全焼。
翌年、藩主の利幹は本丸御殿を含む富山城を再建し、本丸に居所を移します。
嘉永2年(1849)には、10代藩主・前田利保(としやす)が東出丸に隠居所として千歳御殿を造営しました。
明治になり、富山城は廃城、建物は払下げ取り壊されてしまいます。
現在は本丸と西の丸が富山城址公園となっていますよ。
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昭和29年(1954)の4月に富山産業大博覧会が開催され、本丸二重櫓跡に三重四階建ての模擬天守が建設されました。
現在の天守は、そのときに鉄筋コンクリート造りで建造された戦後第1号の模擬天守です。
天守は、松本城や犬山城を模して建造された天守で、内部は富山市郷土資料館となっています。
富山城天守は珍しい外観ですね。
二重の多聞櫓と小天守風多聞櫓をⅬ字型に連結し、二重多聞櫓に付櫓が置かれた白漆喰総塗籠の望楼型天守です。
下の写真で見ると、一重目の千鳥破風は中央でなく片側に置かれています。
こんな千鳥破風は、他の天守で見た記憶がありません。
二重目に向唐破風が置かれていますが、内濠側と対(つい)にするためでしょうか…?
個人的にはこんなところに無理に置かなくても良いと思うのですが。
三重目には、いかにも桃山風に火灯窓と廻縁をつけています。
模擬天守でこの登録は、とても珍しいと思います。
鉄御門桝形に、見映えのために置かれた鏡石(巨石)です。
西面にひとつ、東面と北面に各々二つあり、合計5つの鏡石が置かれています。
千歳(ちとせ)御殿に置かれていた千歳御門。
明治維新時に払い下げられていましたが、所有者が寄付し、平成20年(2008)に城址公園のなかに移築・修復されました。
この門は、創建時から残る唯一の建造物です。
富山市佐藤記念美術館では、富山財界の有力者佐藤家が所蔵していた茶道具類や古陶磁器、日本画、墨蹟などを収蔵、展示しています。
櫓風の建物ですね。
こちらは、城址公園内にありますよ。
2008年に、仕事で富山出張のついでに4城址巡りをしました。
現在は小学校となっている大峪城跡をまず探訪。
遺構は何もなく大峪城の説明板だけがありました。
続いて白鳥城跡。
山城で、ここも説明板と石碑があるだけの城跡です。
次に安田城跡。
こちらは国の史跡に指定され、堀と土塁が復元されていました。
最後に富山城です。
1998年7月12日に初めて富山城を探訪していましたが、記憶していたより小さく感じました。
今行くとまた、違う感じがするのでしょうね。
*富山城詳細
・アクセス:JR北陸新幹線/JR高山本線/あいの風とやま鉄道・富山駅または富山地方鉄道・電鉄富山駅から徒歩約10分・富山駅または電鉄富山駅から富山地方鉄道・市内電車(路面電車)「環状線」に乗り「国際会議場前」停留場下車、徒歩すぐ
・営業時間:9:00~17:00(最終入場時間16:30)
・休業日:年末年始 / 展示替え等の臨時休館日
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【参考文献】
平井 聖監修『城3 甲信越・北陸 銀嶺を望む風雪の城』(毎日新聞社 平成9年3月10日発行)、公益財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行))、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ二』及び『同 解説編』(日本通信教育連盟)、『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、森山英一編著『古写真大図鑑 日本の名城』(講談社+α文庫 1988年11月20日第1刷発行)他