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お城には興味がない方でも学校で習うため、島原城の名前は知っているという方が多いですね。
島原城は、キリシタン大名有馬氏に代わって入封した松倉重政(しげまさ)が、雲仙岳の裾野、島原半島東海岸の中央部に築城しました。
連郭式縄張りの平山城で、別称は森岳(もりたけ)城、高来(たかき)城。
2006年「日本100名城」(第91番)に選定されています。
キリシタン大名で有名な有馬晴信(はるのぶ)は日野江(ひのえ)城主でしたが、領地拡大の策動が発覚して切腹、その子・直純(なおずみ)のときに日向延岡に転封となりました。
その後元和2年(1616)に、大坂の陣の軍功によって加増された松倉重政が大和国五条から日野江城に入城。
彼は一国一城令の発令後にも関わらず、島原半島の中央森岳に新城の建設に取り掛かります。
江戸幕府の九州外様大名への牽制と対キリシタン政策から、特別に許可を得たのですね。
松倉氏が築いた島原城は、4万石の石高以上に豪壮な城郭でした。
権威を振りかざし領民に苛烈な犠牲を強いたため、島原の乱の原因ともなった城ですね。
周囲4㎞にも及ぶ外郭は矢狭間の設けられた土塀で囲まれています。
内郭には南端から順に本丸と二の丸にそれぞれ濠を巡らせて配置、その北側に三の丸が置かれました。
本丸と二の丸とは廊下橋一本のみで繋がっているだけです。
これを切り落とせば、本丸は孤立する仕組みになっています。
また、二の丸も筋金門枡形を開いているだけで、本丸へは一方通行の道しかありません。
普通の城郭には正門と搦手門(裏門)があるのですが、島原城には搦手(逃げ道)がなく、籠城のときは最後まで戦いぬく構えの城郭でした。
そこに他の城郭にはない際立った特色があります。
五重の天守を中心に三重櫓の三基をはじめ多くの櫓や武器・食糧庫が置かれており、有事に備えられた城です。
本丸は周囲に帯曲輪を設け、石垣を2,3段に構築。
非常に防御に優れた城郭であり、何度もいいますが、4万石の居城としては異例なほど壮大な規模の城郭となっています。
寛永14年(1637)、重税とキリシタン弾圧に耐えかねた島原半島南部の村民2万余が蜂起し、島原城に攻め込みます。
しかし、堅城の島原城はものともしませんでした。
これに唐津藩領天草の一揆が加わり、16歳の天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)を総大将として両者合わせて37,000人もが、有馬氏時代の古城原城に立て籠もります。
二度にわたる幕府軍の原城への攻撃は、多くの死傷者を出しながらも容易に落ちませんでした。
幕府は急遽西国大名に命令し12万5千人もの大軍を動員し、老中松平信綱(のぶつな)を派遣してようやく鎮圧します。
二代目藩主・勝家(かついえ)はこの責任を問われ改易となり、後に斬罪に処せられました。
松平氏の後、高力(こうりき)氏が2代にわたり藩主となり、乱後の復興に努めます。
そのあと松平氏、戸田氏、再度松平氏と続いて明治維新を迎えます。
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勤続35周年記念旅行で同期の同僚と雲仙温泉に来たときにガイドをさせてもらいました。
松倉重政によって築かれた五重五階の天守は、城郭建築の建築技術が完成した時期に築かれた最も新しい層塔型独立式天守です。
江戸城などと同じですね。
現在の天守は昭和39年(1964)に復元されたものです。
階が上がるごとに一定の比率で平面が小さくなる幾何学的で整った形で、典型的な層塔型の天守です。
出格子窓が一つと最上階に高欄がありますが、千鳥破風や唐破風などの装飾が全くない、とてもシンプルな白漆喰総塗籠。
古地図によると、江戸時代は黒い下板張りの天守だったようです。
内部は資料館となっていて、「キリシタン史料」「郷土史料」「民俗史料」が展示されています。
荒廃していた島原城は昭和35年(1960)の西の隅櫓の復興を皮切りに、39年に天守、48年に巽櫓、55年に丑寅櫓と順次再建され、往時の姿を蘇らせました。
巽の櫓は、西望記念館です。
有名な長崎平和記念像の作者であり、島原出身者で文化勲章受章者の北村西望(せいぼう)氏の彫塑を展示していますよ。
広い濠と重なって幾重にも屈曲した高石垣は美しくも圧巻ですが、単にそれだけではありません。
軍事的にも非常に防御力が高い横矢掛かりとなっているのですね。
これを攻城することは極めて困難です。
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こちらは島原城の公式ホームページですね。紹介しておきます。
一度ご覧くださいませ。
島原の城下町らしさを最もよくとどめているのは、島原城の近くにある鉄炮町です。
ここは鉄砲隊の屋敷が置かれていたところですね。
石垣に囲まれた屋敷の庭には食料自給のための果樹が多く植えられていたようです。
道の中央の水路は、かつては飲料水や生活用水に使われていました。
寛文9年(1669)に造られた「水道」です。
島原は名水の町としても有名で、至る所に湧水が流れています。
櫓門風の島原鉄道島原駅舎です。
島原鉄道は、かつて諫早駅から加津佐駅まで通っていましたが、平成20年(2008)3月末に島原外港から加津佐駅の間が廃線となりました。
【私の島原半島 城と鉄道を楽しむ旅】
2008年2月23日から1泊2日で、諫早から小浜経由で島原半島をぐるっと廻って4つの城・城址と島原鉄道を完乗する旅をしました。
23日は、島原半島の西側にある有馬氏の家臣で天正遺欧使節メンバーの千々石(ちぢわ)ミゲルの実父・千々石淡路守直員が城主だった、釜蓋(かまぶた)城跡。
城跡は公園となっていて天守・櫓風(?)の展望台が設置されていました。
それからバスで加津佐駅まで行き、加津佐駅から島原鉄道に乗車。
3月末に島原外港駅までの廃線が決定していたためでしょう、結構混雑していました。
そのころ、原城址はまだそんなに整備されていませんでした。
近くの確か「原城」という名前の旅館に宿泊。
予約していましたが行き違いがあったようで、少し待つことになりましたが、何とか宿泊出来ました。
良かった良かった。
翌24日は、近年の発掘調査で石段などが明らかになった有馬氏の居城・日野江城址に行きました。
日野江城二の丸石垣 by:photo-ac
少し離れた道路脇に二重の模擬天守風の建物を発見。
最後に島原城を探訪して、その後ゆっくり島原湾の景色を楽しみながら諫早までの島原鉄道を堪能しました。
*島原城詳細
・アクセス:島原駅から徒歩で5分
・営業時間:9:00~17:30 入館は17:00まで
・休業日:年中無休
【参考文献】
平井 聖監修『城 8 北海道・東北 九州 沖縄 火燃ゆる強者どもの城』(毎日新聞社 平成8年10月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、全国城郭管理者協議会監修『復元イラストと古絵図で見る日本の名城』(碧水社 1995年4月18日発行)、『城と城下町 西の旅』(日本通信教育連盟)、『城 其ノ三』及び『城 解説編』(日本通信教育連盟)他
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