日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書いていきます

お城大好き雑記 第54回 忍城

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御三階櫓と城門   by:photo-ac

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埼玉県にある忍(おし)城は「忍の浮城(うきじろ)」とも呼ばれています。

別称は鴛(おしどり)城、亀(き)城、浮城

「続日本100名城」(第118番)に選定されている、関東七名城(※)のひとつです。

※関東七名城・・・川越城忍城、前橋城、金山城、唐沢山城、宇都宮城常陸太田城(あるいは多気城)。

 

利根川と荒川に挟まれた広大な沼沢、低湿地を天然の濠として巧みに利用し、点在する島を独立した曲輪にして築かれた東国最大の水城で、天下一の堅城です。

戦国時代には難攻不落の城として名を馳せました。

小田原城北条氏康(うじやす)や長尾景虎上杉謙信)などが何度も攻めますが、ついに落城させることが出来なかったことでも有名な城です。  

私は1999年6月5日に忍城へ登城しました。

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御三階櫓と桜  by:photo-ac

忍城成田親泰(ちかやす)により、延徳3年(1491)頃に築かれたと言われています。

ただし、築城時期には諸説あります。

豊臣秀吉天正18年(1590)に小田原城の北条氏を攻めるさいに、関東にある北条方の諸城を攻撃し落としていきます。

この戦いで豊臣勢に屈しなかったのは、韮山(にらやま)城と忍城だけ。

秀吉は31歳の石田三成に武将としての箔を付けようと思ったのでしょう、関東攻めの別動隊の総大将に抜擢して、23,000の軍勢で忍城の攻撃を命じます。

しかし忍城石田三成らの攻撃に対して500名弱の城兵と領民を含めた人数で防戦。

なかなか落城しませんでした。

三成は秀吉が備中高松城を水攻めにしたように、城の周囲に堤を造り水攻めしますが、大雨のため堤防が決壊、濁流が石田軍の陣営を飲み込みます。

この被害で、数百人が溺死し、三成も危うく命を落とすところでした。

水攻めが失敗に終わるどころか自軍に大きな損害をもたらし、武闘派の諸将に「石田は戦下手」の烙印を押され、馬鹿にされたという話が残っております。

この水攻めの戦いは、秀吉の備中高松城紀伊太田城の水攻めとともに日本三大水攻めの一つに数えられていますが、唯一成功しなかった水攻めです

この戦いは、2012年に映画「のぼうの城」として公開されていますよ。

城代として城を守っていた成田長親役を野村萬斎石田三成役を上地雄輔が演じています。

私は2012年の11月24日に見ましたが、“のぼう様”(でくのぼうの意)と領民から慕われる城代長親を演じた萬斎の演技はなかなかのはまり役で、面白い映画でした。

小田原城が秀吉軍に開城し、小田原城にいた忍城城主・成田氏長(うじなが)の勧告に従い、忍城は開城します。 

開城後は、関東八州を秀吉に与えられた徳川家康の領地となりました。

家康は傷んだ城を修築して四男の忠康(ただやす 忠吉)を城主にします。

忍城江戸城の北方の守りの重要な城として幕末まで譜代や親藩の大名が城主を務めているうえ、江戸時代中期まで忍城主は老中などの幕府の要職を歴任しています。

元禄14年(1701)に三代・阿部正武(まさたけ)の時に、忍城はその城下町とあわせて大改築を行いました。

天守の代用として三重(三階)櫓1基、二重櫓2基、他に各城門、橋、白壁の塀などを新築し、忍城を近世城郭の基本的な形に整えています。

 

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鐘楼  by:photo-ac

忍城の鐘楼(しょうろう)は、文政6年(1823)に伊勢桑名から松平忠堯(ただたか)が入封した時に桑名から持ってきたものと言われています。

ただしこの鐘は複製で、本物の鐘は博物館内にあります。

毎年この鐘楼で年越しの鐘がつかれています。

以後幕末まで松平氏の治世が続きました。

 

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御三階櫓と濠   by:photo-ac

明治維新後に城は取り壊されました。

しかし昭和63年(1988)に行田市(ぎょうだし)郷土博物館の建設に伴い、「忍城俯瞰図」や史料などに基づいて三重四階の三階櫓が復興されています。

元禄15年(1502)年に完成した往時の三階櫓は、外観が江戸城富士見櫓に似ていたと伝わっています。

白漆喰総塗籠で、一重目の外側に出格子窓を付け、三重目に軒唐破風を配した優美な姿です。

本来の三階櫓は三の丸にありましたが、御三階櫓(模擬天守)は本丸に建てられています。

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行田市立郷土博物館   by:photo-ac

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土塁と濠  by:photo-ac

 外濠の一部として残る大沼が現在は水上公園になり、本丸の西・南側の土塁と諏訪曲輪の土塁・濠は遺構として残っています。

石垣は、土塁の下部のみに石垣を築いた腰巻石垣と呼ばれるものです。

 

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忍城北谷門(総願寺黒門) by:photo-ac

北谷門は忍城の建築遺構としては唯一のもので、現在は加須(かぞ)市総願(そうがん)寺に移築されています。

忍城水攻めの名残である石田堤や、三成が布陣した丸墓山古墳なども探訪がおすすめです。

 

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成田泰季や成田長親とともに忍城に籠城した甲斐姫の話は有名ですね。

東国一の美女と謳われた19歳のうら若き甲斐姫は、自ら鎧をまとって戦います。

豊臣方を撃破して城を守りますが、小田原城が開城したあとに忍城も開城。

その後、甲斐姫豊臣秀吉の側室にされます。

戦国時代とは言え、敵方の親分の側室にさせられるとはひどい話です。

美人であるがゆえのことでしょうが。

なお、秀吉の死後に甲斐姫がどのような人生をおくったのかは不明です。

 

【1泊2日の関東4城探訪の旅】

忍城を探訪した1999年6月5日は、そのあと群馬県高崎城を探訪しました。

高崎城址には、出窓のある長屋門式の東門と大手門南側の土居上に移築された乾(いぬい)櫓があります。

翌日は沼田公園となっている沼田城を午前中に探訪。遺構としてはわずかに石垣が残っているだけでした。

そのあと足利城跡(足利館)に行きました。館内に鑁阿(ばんな)寺があります。

ここは城(政庁)と言うよりも寺院としての性格が強い館でした。

 

忍城詳細

・住所:埼玉県行田市本丸17-23

・アクセス:秩父線行田市駅から徒歩で15分(JR高崎線吹上駅/バス/15分又はJR高崎線行田駅/市内循環バス/29分)

・営業時間:9:00~16:30 最終入館は16:00まで

・休業日:月曜日(祝日休日は開館)/祝日の翌日(土日は開館)/毎月第4金曜日(テーマ展企画展開催中は開館)/年末年始

 

 

【参考文献】

平井 聖監修『2 関東 もののふ集う東国の城』(毎日新聞社 平成9年2月25日発行)、財団法人日本城郭協会監修『続日本100名城公式ガイドブック』(学研プラス 2018年5月7日第6刷発行))、南條範夫監修『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育連盟)『城と城下町 東の旅』(日本通信教育連盟)、『城 解説編』(日本通信教育連盟)他