
日本全国にあるお城。見ていく中で「ん?」と感じたことを書いていく「かるーいお城の雑学」です!
19回目ですね。
今回は、仙台藩・伊達家の要害に関してみていきましょう。
伊達家の領内では、居城以外の城の廃棄を命じた元和元年(1615)の「一国一城令」の後も、幕府には「城」といわず「要害」と称した「城」が明治6年まで存在しつづけました。
その数は、なんと21!
「伊達21要害」とよばれることもあります。
その要害を探訪した際のことを、順番に報告していきますね。
*伊達藩の領内にあるお城について

要害紹介の前に、伊達藩領内にあった城について記載しておきますね。
伊達領には、仙台藩から、天和元年(1681)に支藩として3万石を田村建顕(たけあき)が拝領して成立した一関藩があります。
藩が持つ一関城は単郭で、略方形の居館を土塁と塀で囲み、水濠を巡らせた陣屋にちかい造りでした。
田村氏で明治を迎え、現在は釣山公園になっています。
訪問しましたが、かろうじて一関城跡の説明板があるだけでした。
また、伊達領には白石城も存在しています。
関ヶ原の戦いのあと、白石城を手にいれた伊達政宗は、家臣の片倉景綱(かげつな)に1万3,000石を与えて白石城の城主としました。
片倉氏はもちろん城主格の大名ではありません。
あくまでも伊達家の家臣ですが、白石城は片倉氏城主で明治を迎えます。
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*岩手・宮城県の要害巡り

1998年9月22日から2泊3日で、宮城県の白石城、仙台城、多賀城と仙台藩の「要害」と呼ばれている涌谷(わくや)城(要害)を探訪しました。
また、2006年には9月10日から2泊3日で岩手県・宮城県の伊達領にある「要害」を中心に、「城」巡りの旅を楽しみました。
初めての「要害」巡りの旅でした。
「要害」といっても、かつては櫓や石垣、土塁、濠などが備えられた実質的には城と変わらないものです。
何のことはない、中世以来の城郭ではないかというのが素直な感想でした。
随分と古い記憶になってしまいましたが、紹介します。
・1998年9月24日
涌谷要害(岩手県)
涌谷要害は、江合(えあい)川左岸の断崖上の丘陵先端部に築かれています。
天正18年(1590)に、城主の涌谷氏が滅ぼされ、以後は伊達領となりました。
伊達政宗の家臣・亘理(わたり)重宗が入城し、天正20年に近世城郭として大改修を実施。
亘理氏は慶長11年(1606)から伊達姓を名のり、涌谷伊達氏の居城となります。
涌谷城本丸跡には涌谷神社があり、城跡は現在城山公園となっていて、二の丸には天保4年(1833)再建の隅櫓と涌谷町立史料館の模擬天守が建てられています。

・2006年9月10日
金ヶ崎要害(岩手県)
金ヶ崎城は北上川の自然堤防の上に築かれ、本丸、二の丸、蔵館、東館など多数の曲輪で構成されていました。
城跡は、現在住宅地や畑となっていますが、二の丸の土塁や空堀が残っています。
金ヶ崎城には説明板が設置されていました。
水沢要害(岩手県)
水沢要害は、明治6年(1874)、仙台藩の要害のなかでは唯一「存城」が決定しますが、建物の損傷が激しかったために結局は払い下げとなりました。
城跡は、本丸、二の丸が奥州市役所、岩手県奥州地区合同庁舎となっていて、往時の面影はまったくありませんでしたが、冠木門と説明板がありました。
岩出山要害(城)(岩手県)
江合川の南岸標高約100mの断崖上に、大崎氏の家臣・氏家直益によって築かれた平山城です。
中世には岩手沢城と呼ばれたと伝わっています。
北羽前街道と羽後街道の交差する要衝の地岩手沢に築城されています。
天正18年(1590)に、豊臣秀吉の奥羽仕置きに際して起こった葛西・大崎一揆を平定した伊達政宗は、翌年米沢からこの地に秀吉の命により転封となりました。
岩山を堀切で分断し、土塁で固めて曲輪を造り、政宗の居城にふさわしく改修します。
あわせて街道や城下町の整備も行いました。
ここが、仙台城を新たに築城するまでの10年余り、伊達政宗の居城でした。
政宗が慶長6年(1601)に仙台城に移ったあとは、4男の宗泰(むねやす)が1万石で入城、岩出山伊達家10代で明治を迎えています。
現在城跡は城山公園となっていて、筆者が探訪したときには本丸跡にコンクリート製の伊達政宗像がありました。
二の丸跡には、岩出山高校と岩出山伊達家が開設した郷学(学問所)であった有備館と庭園が残っていますが、私が探訪したときは修繕中で入館できませんでした。
曲輪や土塁、門跡などが残っていましたよ。
・2006年9月11日
亘理(わたり)要害(宮城県)
亘理城(要害)は、天正年間(1573~92)に亘理元宗によって築城された臥牛城ともよばれる平山城です。
天正19年(1591)に、亘理氏が涌谷に移されると片倉景綱が入城しました。
景綱が白石に移ると伊達成実(しげざね)が入り、亘理伊達家の居城となり、明治を迎えます。
亘理城(要害)丘陵の先端に築かれ、本丸、二の丸が梯郭式で設置。
周囲は土塁と水濠で囲まれ、西側には大沼がありました。
現在は亘理神社や高校の敷地となっています。
JR亘理駅の隣には、図書館や郷土資料館が入っている悠理館(ゆうりかん)という天守風の建物がありましたが、休館日で入館できませんでした。
坂元要害(蓑首城)(宮城県)
坂元要害は、平野に突き出た丘陵に築かれていました。
南の最高所に本丸、北側に梯郭式に二の丸、三の丸を設け、周囲は土塁と水濠を廻らせていました。
三の丸の内山氏宅の門は旧大手門で、両側には土塁も残っています。
本丸跡に坂元神社があり、坂元要害の説明板と石標がありました。
金山要害(宮城県)
永禄7年(1564)のころ、井戸川将監(いどがわ しょうげん)の築城といわれている山城です。
「要害」のなかでも伊達領の一番南側にあり、戦国時代には相馬領と接する地にあった金山要害は、伊達・相馬氏の抗争の主戦場となっていました。
天正9年(1581)の伊達政宗の初陣は、この金山城攻めと伝わっています。
天正12年(1584)に、伊達氏が落城させ、この戦いで戦功をあげた中島宗求(むねもと)に伊達政宗は与えました。
以後、中島氏の居城として明治を迎えます。
山頂の本丸には、要害では珍しい高石垣が築かれ、二重櫓と多聞櫓が巡らされていたようです。
山麓には二重の濠が廻らされ、城門はすべて埋門(うずみもん)であったとか。
現在はお館山(たてやま)公園となっていて、金山要害の説明板があります。
本丸跡周囲の野面積みの石垣が遺構ですよ。
角田(かくだ)要害(宮城県)
戦国時代は伊達氏一門の田手(たて)氏の居城でしたが、天正19年(1591)には伊達成実(しげざね)、慶長3年(1598)には政宗の叔父石川昭光が入ります。
石川氏は、角田要害を近世城郭として大改修しました。
角田要害は平野に突き出た丘陵の先端部を利用して築かれており、周囲は土塁と水濠を廻らせていました。
また、仙台城と同じような懸造(かけづくり)がありました。
これは石川氏が仙台藩の家格最高位である一門筆頭であった格式を示すものといわれ、角田要害だけにみられた特徴だったようです。
以後、明治までの270年余りは石川氏の居城でした。
城跡は角田中学・角田高校となっていて、かろうじて石標が建てられていました。
船岡要害(城)(宮城県)
船岡城(要害)は、伊達騒動で悪人とされた原田甲斐の居城でしたが、事件の後、原田氏の所領は没収されます。
以前の領主だった四保(しほ)氏、後に改名した柴田氏のものとなり、柴田氏で明治を迎えています。
四保城、柴田城とも呼ばれていますよ。
船岡城は、平野に突き出た半独立的な丘陵に築城されていて、山頂に本丸、山麓に二の丸、三の丸、四の丸が配され、土塁と水濠が廻らされていました。
城跡は、船岡城址公園となっていて、本丸跡には中世の石垣が残り、全体的には遺構が良く保存されています。
現在は、城跡というより桜の名所として有名ですよ。
日本経済新聞に原田甲斐を主人公にした山本周五郎の名作「樅の木は残った」が連載され、本が出版されるや、船岡城には多くの人が訪れるようになったらしいですね。
山本周五郎の奥様が『樅の木は残った』の記念植樹をしていて、原田甲斐の供養塔があります。
連載された日本経済新聞社の説明板も設置されていました。

二の丸跡が、原田甲斐の居館があった所です。
桜の季節には、船岡城から「一目千本桜」として有名な城址の桜の風景を楽しめます。
また、残雪の蔵王連峰をバックに、きれいな白石川添いの桜の並木も望めます。
タイミングが良ければ、東北本線を走る列車をセットでみられますよ。
山上には白亜の船岡平和観音像が建立されています。


・1998年9月22日・2006年9月12日
白石城(宮城県)

白石城は、周囲が総石垣の本丸に、天守のない本城に遠慮してか「大櫓」とも称された三階櫓(天守)が建造されていています。
城門や櫓が建造され、多くの曲輪をもつ立派な天守のある城郭です。
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私が探訪した要害は以上の9か所ですが、その他に岩手県に上口内(かみくちない)、人首(ひとかべ)、岩屋堂、佐沼、宮城県に登米(とよま)、高清水、宮沢、不動堂、川崎、岩沼、平沢、福島県に谷地小屋(やちごや)要害跡があります。
一度、要害巡りを制覇してみたいですね。
*閑話休題
江戸時代のことを記事にするときは、「仙台藩」とか「土佐藩」とか、「藩」という言葉を一般的によく使います。
その「藩」という表現ですが、西ヶ谷恭弘は「総論 近世の築城施設―幕末・明治維新時を中心に―」(西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』所収)で、
「『藩』という言葉が、大名家、大名家の支配機構、大名領国、大名家臣団の所属等々を表現する言葉となった。藩は大変便利な言葉なので、公儀である幕府権力を示す言葉と共に、日本の近世武家政治機構を『幕藩体制』と呼び訓わされるようになった。」(4頁)と述べています。
また、その註で「藩とは『幕藩体制』という学術用語から、いつの間にか大名、大名権力、大名領国を示す言葉として一般に使われ出し、小説・物語・テレビ等で『藩』という呼び名が、あたかも江戸時代から存在したように用いられ、今日の誤解を生じさせた」(39頁)と書かれています。
したがって、江戸時代の「城」のことを書く場合、「仙台藩の白石城」という表現は間違いということになります。
正しくは「伊達家領内にある白石城」と表記するべきなのでしょう。
このことを知ったのは、この本を買った時ですが、この城のブログは学術論文ではないので、読者の皆様に理解されやすいように、「土佐藩」「伊達藩」といったように「藩」という言葉を使っています。
ご了解ください。
【参考文献】
小和田哲男監修『ビジュアル・ワイド 日本の城』(小学館 2005年3月20日第1版第1刷発行)、西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』(東京堂出版 2002年7月15日初版発行)、他
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