日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記

とにかくお城が好き!日本のお城のアレコレを好き勝手に書きます。※当ブログはアフィリエイト活動を行っています。

お城大好き雑記 第4回 大阪府 大阪城

f:id:sekimeitiko:20200426095843j:plain

Yes!大阪城! by:poto-ac

4回目は、私が住む大阪府の城、大阪城を紹介しましょう。

 

大阪城とは?

大阪城(明治以前は大坂城)は上町台地北端にある城で、別称は金城・華城・錦城

2006年に「日本100名城」(第54番)に選定されています。

現在の復興天守は3代目の天守です。 金色が太陽に輝き、城内にはエレベーターが設置され、大阪と大阪城の歴史を学べる博物館となっています。

大阪城天守は内部を歴史博物館とする復興天守活用法の先駆けだけでなく、平成9年に国の登録有形文化財に指定されました。
復興天守では唯一です。Yes!大阪城
その他の大手門(高麗門)多門櫓など櫓5棟、塀3棟、金蔵などは重要文化財ですが、遺構はすべて徳川時代の建築物です。

秀吉が建造したものではありません。

 

大阪城の歴史(築城から廃城まで)

天下を取った豊臣秀吉が、この地に天正11(1583)年に築城を開始し、織田信長に代わって天下人となった者に相応しい壮大な居城を完成します。

本丸には黒漆塗の下見板、金箔瓦、金の飾り金具をつけた豪華な五重の望楼型天守が聳え、本丸を囲うように二の丸、山里丸、三の丸の4郭からなる輪郭式の縄張。

まさに難攻不落の城でした。

しかも金色に黒板で見た目が派手。めっちゃ派手。

しかし秀吉の死後、覇権を握った徳川家康に、慶長19(1614)年大坂冬の陣、翌元和元年の夏の陣で敗れ、落城

冬の陣の後、家康の奸計によって本丸以外の濠を埋められ、土塁のほとんどを破却、丸裸にされてしまいます。

濠を埋められた城は全く守れません。

徳川幕府は、元和6(1620)年に大坂城の全面改築を始めます。

普請奉行(石垣や堀、土塁などを築く土木工事)には名築城家の藤堂高虎を命じ、西国大名64藩を動員しての天下普請です。

作事奉行(天守や櫓などの建物を建てる建築工事)はこれまた有名な小堀遠州が担当しています。

▼関連記事

秀吉時代の縄張りの上に約10mの盛土をし、石垣を新たに築き上げ、「豊臣大坂城」をはるかに上回る「徳川大坂城」は完成します。

秀吉時代の大坂城の遺構は地中深く埋められてしまいました。

しかし、寛文5(1665)年の落雷により天守は焼失、以後再建されませんでした。

そして近年、本丸の地中から秀吉時代の野面積みの石垣が発見されています。

 

大阪城|現存する遺構・見どころ

大阪城に初めて登城したのは、高知から奈良に引っ越してきてから間もなくの頃だろうと思いますが、それ以後何回も訪れています。

友人・知人のガイドをすることもありますよ。

 

ここでは大阪城で特に見てほしいところを紹介しますね。

大手の土橋から左に見えるのは、有名な千貫櫓。

大手門に迫った敵を北西部から攻撃する重要な櫓です。

写真では見えていませんが、その左奥にあるのが乾櫓で、千貫櫓とともに徳川期に造られた最古の建造物です。

千貫櫓と大手門櫓門(右)

f:id:sekimeitiko:20200428114302j:plain

乾櫓 L字型 by:photo-ac

この櫓は大変珍しい櫓です。

通常櫓などの建築物は2階部分が1階部分より小さいのですが、乾櫓は2階部分も同じ面積という総2階造りの構造をしているばかりか、上から見るとⅬ字の形をしています

▼関連記事

大手土橋(堀を渡る土の橋なので、大手道とは言わず大手土橋と言う)を渡り大手門(高麗門)を入ると大手桝形があり、正面に巨石と現存する多門櫓が見えます。

石垣上の細長い長屋形式の櫓が「多門櫓」です。

「多門櫓」は戦国武将松永久秀が大和(奈良)に多門城を築いた時、初めて用いた形式です。

桝形の塀を裏側から見ると良くわかるのですが、石垣と土塀の接する所に石狭間が見られます。

石狭間は大阪城でしか見たことがありません

高度な石の加工技術と財力が必要なので、天下普請だから出来たと言えると思います。

正面には鏡石があり、綺麗に加工された巨石はやはり相当の迫力がありますね。

大手櫓門、多聞櫓

多聞櫓の鉄砲狭間

櫓門には石落しがあり、攻めてくる敵を上から長槍で攻撃します。

お湯を流したりすることもあったようですが、実際には名前と違って石は落とされなかったとか。

普段は中に入ることは出来ませんが、年に何回か特別に入れる機会があります。

 

右に豊国神社を見ながら、内濠(空堀)の土橋を渡って桜門を入ると、正面に蛸石が見えます。

これは巨石にあるシミが蛸の形に見えることから名づけられたもの。

f:id:sekimeitiko:20200428114501j:plain

蛸石 by:photo-ac

大阪城最大の巨石ですが、実は薄く石を切断したものを設置しており、表面の面積の割には奥行きがありません。

ここでは周囲から「蛸には見えないー!」という声がよく聞こえますね。

写真では影が薄くてシミがよくわかりませんが、見ようと思えば蛸に…見える…はずですよ。

諦めず、何度かトライしてみてくださいね。

 

昭和に入ってから、当時の関一(せきはじめ)大阪市長が、大阪城を再建するために寄付を市民に募りました。

何と、僅か半年間で目標の150万円(現在の約700億円)が集まったそうです

しかし、その寄付金の半分近くは大坂城の再建を許可した陸軍に取られてしまいました。

そこで昭和天皇の即位を記念するものとして、昭和6年に鉄骨・鉄筋コンクリート造りで復興。

大坂夏の陣屏風」に基づき、徳川大坂城天守台の上に秀吉時代の天守が作られたのですね。

平成9年には大改修が行われています。

しかし、再建された大坂城の外観はご覧の通り、五重目は黒漆に金箔の虎が描かれるなど豊臣大坂城の姿ですが、その下は白漆喰総塗籠の徳川大坂城の姿となっています。

城の上と下の色が一致していないのです。

黒板であれば全身黒板を使用し、漆喰であれば全体に白漆喰を使用するのが通常のやり方のはず。

恐らくほとんどの人は違和感なく見てると思いますが、城郭史から言えばおかしな大坂城の姿なんです。

3代目の大阪城天守  by:photo-ac

▼関連記事

本丸には、明治6年の廃城令によって廃城となった和歌山城二の丸御殿を解体、移築

し、紀州御殿と呼ばれる御殿がありました。

この御殿は当初陸軍第四師団司令部として使用され、昭和6年以降は大阪市の迎賓館でしたが、昭和22年失火により焼失したようです。

 

二の丸には豊国神社があります。 

f:id:sekimeitiko:20200428121515j:plain

豊国神社と豊臣秀吉 by:photo-ac

秀吉の死後、遺言により京都東山の麓に豊国神社が創建されましたが、豊臣滅亡後放置され、荒れ果てていました。

明治元年明治天皇の命により再建され、明治12年中之島大阪市庁裏に別社として建立。昭和36年には大阪城内に移されました。

▼関連記事

話は変わりますが、天守の裏側にある山里丸に「淀殿・秀頼母子自刃の場所」の石碑がたっています。

その周辺は、実は関西学院プラザと言われ、「KGプラザ」と関西学院のスクールモット―の「Mastery for Service」が印字されたプレートが設置されています。

また、極楽橋を渡り、京橋口の方に行く林の中には「早稲田の森」という石碑が建っています。

興味がある方は、探してみてくださいね。

豊臣秀頼 淀殿ら自刃の碑



▼PR 飛行機、安くなるよ

 

 

大阪城詳細

・住所:大阪府大阪市中央区大阪城1-1

・アクセス:JR大阪城公園駅 / JR・地下鉄森ノ宮駅 / 地下鉄谷町四丁目駅 下車すぐ 

・営業時間:大阪城公園は常時開園

     大阪城天守は9時~17時(入館~16時30分)時間変更あり

・休業日:大阪城公園はなし (但し、園内各施設は各休館日設定有)

   大阪城天守は12月28日~1月1日 

 

▼PR

 

 

 【参考文献】

『別冊歴史読本  城の見方・歩き方―身近な城を歩くためのガイドブック』(新人物往来社 2007年6月1日5刷発行)、財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』(学習研究社 2007年7月3日第1刷発行)、石井進監修『文化財探訪クラブ 城と城下町』(山川出版社1999年7月25日1版1刷発行)『日本の城 名城探訪ガイド』(日本通信教育者)、「大坂城パンフレット」他

▼PR